ニホンピロジュピタ列伝・未知に挑んだ馬
『北の大地に立つ』
小林騎手によれば、ニホンピロジュピタの印象は「乗り味がすごくいい馬。なかなか巡りあえないと思った」というものだった。・・・とはいっても、半兄ニホンピロプリンスの初勝利は旧4歳3月の未勝利戦だったことに加え、父オペラハウスの競走実績、Sadller’S Wellds系の傾向には、いずれも重厚な晩成馬というイメージがつきまとう。デビュー戦でのニホンピロジュピタも、旧3歳夏はいかにも時期が早すぎ、そして芝1000mのレースも条件が短すぎると思われたようで、彼に寄せられた単勝オッズは2200円と低迷し、12頭立ての7番人気にとどまった。
ファンの不安…というよりは無関心の中でデビュー戦に臨んだニホンピロジュピタだったが、そのレースで予想外の新馬勝ちを果たした。3着までと同タイムで、着差もアタマ差、ハナ差という接戦を制したことは、最適と言えない舞台でも勝ち切る絶対能力、そして並んで抜かせない勝負根性の現れといえなくもない。
ただ、その後は続かず、1番人気に支持されたクローバー賞(OP)では5着、その後のコスモス賞(OP)でも5着にとどまった。本田優騎手に乗り替わっての札幌3歳S(Glll)は3着という結果で、3歳夏の札幌シリーズを締めくくった。
『迂遠なる旅路』
札幌から栗東へ戻ったニホンピロジュピタは、新たに武豊騎手を鞍上に迎えてデイリー杯3歳S(Gll)に出走した。翌年のクラシック戦線にはスペシャルウィークで臨んで悲願の日本ダービー制覇を果たすことになる武騎手だが、この時点でのスペシャルウィークは、まだデビューすらしていない。「ニホンピロジュピタと武騎手のコンビによるクラシック挑戦」という可能性も、この時点ではまだ残されていた・・・はずだった。
しかし、ニホンピロジュピタは、武騎手とのコンビでクラシック戦線をうかがうどころか、出走ゲートにすらたどり着くことができなかった。デイリー杯3歳Sは3着、京都3歳S(OP)は4着・・・。そして、年が明けて4歳になった初戦のアーリントンC(Glll)では、3戦1勝からの格上挑戦で、このレースが生涯最後のレースとなる外国産馬ダブリンライオンの大駆けから実に1秒6離されての8着に沈んだ。・・・この時点で500万下級にとどまるニホンピロジュピタは、少なくとも皐月賞に出走できないことが、ほぼ確定してしまった。
自己条件に戻ったニホンピロジュピタは、皐月賞の1週間目に開催されたさわらび賞(500万下)に小林騎手とのコンビで臨んだものの、ここでも6着に敗れ去っている。ここまでのニホンピロジュピタの通算成績は8戦1勝で、デイリー杯3歳Sと札幌3歳Sで重賞3着の実績はあるものの、本賞金は500万下のままである。重賞好走歴から分かる通り、見るべきものはあるにしても、ニホンピロジュピタの「勝ち切れなさ」は深刻だった。
『転進』
なかなか殻を破れないニホンピロジュピタの現状に直面した目野師は、ひとつの決断を下した。ダート転向・・・それまで芝のレースでしか走っていなかったニホンピロジュピタは、ここで大きな方向転換を決意したのである。
しかし、ニホンピロジュピタにダート適性があるのかどうかは、よくて「未知数」というところだった。
競走馬にとって、適性を判断する際の大きな根拠とされる血統だが、ニホンピロジュピタの父であるオペラハウスは、ダート競馬がほとんど行われていない欧州馬であり、自身も生涯芝でしか走ることがなかった。オペラハウスが属するSadler’s Wells系のダート実績も、97年ドバイワールドC(Gl)、96年ジャパンC(国際Gl)を制したシングスピールや、2009年にプリークネスS(国際Gl)、ケンタッキーオークス、マザーグースSなど米国Glを5連勝してエクリプス賞に輝いたRachel Alexandraといった少数の成功例があるものの、Sadler’s Wells系が残した輝かしい実績の中では、ほんのささやかな例外にすぎない。
母系を見ても、母のニホンピロクリアも芝でしか走っておらず、歴代の母系牝馬たちも同様である。ニホンピロジュピタの血統構成の中でダート適性がありそうなのは、母の父で米国で実績を残したプレイヴェストローマンくらいである。ただ、プレイヴェストローマンは、確かにダートで多くの実績馬を輩出してはいたものの、その一方でトウカイローマン、マックスビューティ、オグリローマンなど芝のGl馬も多数輩出していた。当時の競馬界における芝とダートの地位の違いもあって、種牡馬プレイヴェストローマンに「芝ダート兼用」というイメージはあっても、「ダートの鬼」という印象ではなかった。
そのため、ニホンピロジュピタのダート転向は、決して必然的なものではないように思われた。しかし、結果はたちまち出た。ダート初戦となった4歳500万下の平場戦では、これまでの勝ち切れなさが嘘のように、4馬身差で圧勝したのである。さらに、羊蹄山特別(900万下)2着を挟んでオーロラ特別(900万下)も2馬身差で制し、900万下クラスも2戦で突破した。芝からダートに替わったことでニホンピロジュピタが見せた思わぬ適性は、ファンのみならず、目野師をはじめとする関係者をも驚かせるに足りるものだった。
実は、この時点ではまだ誰も知る由もないが、オペラハウス産駒からは、ニホンピロジュピタ以外にも、後に南関東でデビューして1999年の東京王冠賞ではオリオンザサンクスの南関東三冠達成を阻止するオペラハット、2001年のマーキュリーC(統一Glll)、白山大賞典(統一Glll)を勝ち、ジャパンCダート(Gl)でもクロフネの3着、翌02年も帝王賞(統一Gl)でカネツフルーヴの2着とダート重賞戦線で活躍するミラクルオペラといったダート馬たちを次々と輩出している。突然変異というよりは、オペラハウスの血統の中に眠っていた適性が目覚めたのだろう。
オペラハウス自身の代で証明する機会に恵まれなかったダート適性は、ニホンピロジュピタのダートでの活躍によって、注目され始めた。その後hオペラハウス産駒がダートに出走するケースが増え、前記のようなダートの強豪たちの出現につながっている。