ニホンピロジュピタ列伝・未知に挑んだ馬
『新時代の胎動』
南部杯の後、脚部不安を発症したニホンピロジュピタは、しばらく戦線を離脱することになった。
ニホンピロジュピタがいない間も、ダート戦線は続く。1999年のダート戦線を締めくくる東京大賞典(統一Gl)は、復帰を果たした大本命メイセイオペラが失墜し、彼がらみの馬券が宙を舞う中、ワールドクリークの優勝によって幕を閉じた。
その後発表された1999年のJPNクラシフィケーション・5歳以上ダート部門では、フェブラリーSと帝王賞を制したメイセイオペラに最高レートの「117」が付与された。そして、それに次ぐレート「114」を与えられたのは、東京大賞典を制したワールドクリークとニホンピロジュピタで、川崎記念を制して「113」を付与されたアブクマポーロよりも高い評価を得ている。ちなみに、4歳ダート部門のトップはオリオンザサンクスとタイキヘラクレスの「108」だから、その評価は次元が違うといってよい水準である。この段階でのニホンピロジュピタは、間違いなく2000年のダート界を担って立つべき存在と目されていた。
翌2000年に入ると、フェブラリーS(Gl)はウイングアロー、川崎記念(統一Gl)ではインテリパワーがそれぞれ制し、彼らはGl初勝利を挙げた。アブクマポーロ、メイセイオペラという地方競馬所属の両雄たちの時代が事実上終焉を迎え、次々と新勢力が台頭するダート戦線の中に、条件馬から4連勝によってGl馬へと登りつめたニホンピロジュピタがいつ、どのように復帰するのか・・・?そんな問いかけに胸を躍らせるダート戦線のファンは、決して少なくなかった。
『突然の最期』
ニホンピロジュピタも、自らに寄せられた期待に応えるべく、帰厩して復帰に向けた調整を進めていた。
しかし、そんな彼に悲劇が襲いかかったのは、2000年5月9日のことだった。栗東トレセンで乗り込み運動を続けていたニホンピロジュピタだったが、その途中に右第2趾骨複雑骨折を発症したのである。彼に下された診断は、予後不良というものだった・・・。ニホンピロジュピタには、その日のうちに安楽死の措置がなされた。ニホンピロジュピタは、旧齢6歳で早すぎる死を迎えてしまったのである。
レース中の事故によって散った名馬は、多くのファンに看取られる最期ゆえに、ファンに対して強力な印象と記憶を残す。だが、ニホンピロジュピタの場合は、同じ事故でも、レース中ではなく調教中でのもので、彼の最期の瞬間を看取ったのは極めて限られた関係者だけだった。
それどころか、当時のダート界の地位の低さゆえに、ニホンピロジュピタの訃報そのものすら、競馬界の中でも大々的に報じられたとは言い難い。競馬中継での一瞬の言及や、専門誌、スポーツ紙の片隅に小さく掲載された記事を見逃したゆえに、ニホンピロジュピタがもういないことに気づかなかったファンも、決して珍しくはなかった。・・・こうして、競走馬ニホンピロジュピタの馬生は、早すぎる終わりを迎えたのである。
『彼が生きた意味』
芝でこそ伸び悩んだものの、ダートに転身した後は血統的に意外な適性を見せ、ついには統一Glを勝つことで、その名前にふさわしい実力を示したニホンピロジュピタだが、調教中の事故によって最期を迎えたその馬生は、短く、そして悲しいものとなってしまった。
オペラハウス産駒のうち芝で一流の実績を残したテイエムオペラオー、メイショウサムソンは、故障知らずの頑丈さで長らく一線級に君臨したことで知られている。ただ、偶然の符合ではあろうが、同じオペラハウス産駒の中でも、ダートで実績を残した産駒たちは、なぜか悲しい最期を遂げた馬が少なくない。1999年東京王冠賞馬オペラハットは2003年の船橋記念のレース中の事故によって散り、統一グレードで長く活躍したミラクルオペラも、最後のレースとなった平安S(Glll)で11着に沈んだ後、レース中に右前繋靭帯断裂を発症していたことが判明して、予後不良、安楽死となっている。ニホンピロジュピタも、悲劇の翳がつきまとうオペラハウス産駒のダート馬たちの1頭に数えられることに争いはないだろう。
しかし、その最後が悲しいものだったからといって、ニホンピロジュピタの馬生そのものまで悲しいものだったと断じることはできない。ニホンピロジュピタが人間たちは予想すらしなかったダート適性を示して活躍したことは、単に自身の未知の可能性を現実に変えたにとどまらず、芝深い欧州で実績を残したオペラハウスのダート適性が見出されるきっかけとなり、同じ血を持つサラブレッドたちのダートへの挑戦を後押しすることにもつながった。「拡大と発展」・・・ニホンピロジュピタは、自身に与えられた名前の惑星に恥じない活躍を見せたのである。
ニホンピロジュピタの活躍は、血統が決して一面的ではないことを気づかせてくれるとともに、ひとつの道でうまくいかない場合でも、道を変えてみることで新しい可能性を切り拓くことができることを示すものだった。血統表にその名を残すことはできなかったけれど、以前と比べてより多い選択肢が馬たちに用意されるようになった現代において、彼が戦った意味は、いまだに普遍的な意味を持っていると信じたい。