スクラムダイナ列伝~夢の途中~
『少年の日の誓い』
吉田善哉氏は、それまで馬に人生と情熱のすべてを捧げ、馬産に、そして競馬に自らの生涯を賭けてきた男である。そんな善哉氏にとって、「ダービーを勝つ」ということは、特別な意味を持っていた。
時を遡ること約50年前、1932年4月24日。今は既に取り壊されて幻となった目黒競馬場で、日本競馬史に残る伝説のレースが行われた。日本で生まれた競走馬たちの頂点を決するため、それまでの戦いを勝ち抜いてきた19頭によって競われた「東京優駿大競走」こそ、後の世に第1回日本ダービーと呼ばれることになる、日本競馬の出発点である。
「広く天下に良駿を求む」
そんな思想を掲げて始まった「東京優駿大競走」当時、日本の馬産は年間約12万頭とされたが、その中でのサラブレッドやサラ系は、約900頭程度だったともいわれている。このうち、2歳10月時点で第1回出馬登録を行ったのが168頭、そして彼らの中からさらに絞りをかけられて勝ち残り、ただ1頭に輝く栄冠を求めて戦うことを許されたのが、最後に残った19頭だった。
そんな特別なレースを一目見ようと競馬場を埋めた約1万人の観衆の中に、父親の善助氏に連れられた10歳の吉田善哉少年の姿があった。善助氏の牧場である社台牧場は、歴史に名を刻む19頭の中にヨシキタという出走馬を送り込んでいたため、父子で応援に行ったのである。
ヨシキタは、善助氏、善哉少年の応援もむなしく、16着に終わった。初代日本ダービー馬としてワカタカが永遠にその名を刻んだ姿を、善哉少年はその幼い目にはっきりと焼き付けた。そして善哉少年は、この時誓ったのである。
「いつか必ずダービーを勝てる馬を自分の手で作る」
と・・・。
そんな誓いを胸に秘めた善哉少年は、成人すると自らの牧場を開こうという強い決意を持っていた。やがて彼は、1956年に父の社台牧場を受け継いだ兄たちから独立し、自らの牧場、「社台ファーム」を開いた。独立当時の社台ファームの繁殖牝馬は8頭で、どこにでもある中堅牧場のひとつにすぎなかったが、善哉氏は、寝る間も惜しんで馬作りに突っ走り、1963年には初めてリーディングブリーダーの地位を奪取した。その後善哉氏は、73年に西山牧場にその地位を譲った以外、一度たりともリーディングブリーダーの地位を他に譲らない日本最大の生産牧場を一代で築きあげたのである。
『ダービーに賭ける夢』
だが、牧場は大きくなったものの、善哉氏の幼い日の誓いは、なかなか果たされることがなかった。日本最大の生産牧場となった社台ファームも、日本ダービーを制覇する馬だけはなかなか出せなかった。
「ダービーを一度も勝てないままで、何が日本一の牧場か」
そう強く信じる善哉氏は、毎年のようにダービーへの出走馬を送り続けたものの、悲願は果たし得ぬまま、ついに還暦を迎えるに至っていた。
自分はこのままダービーを勝てずに終わってしまうのか。もともと健康状態には自信がなかった善哉氏は、自らの焦りに対抗するかのように、1982年の暮れ、ある宣言を周囲に対してぶちあげた。
「3年以内に必ずダービーを勝つぞ」
善哉氏は、この時期ことあるごとにそう触れ回り、マスコミの前でもまったくはばかるところがなかったため、善哉氏の宣言は、競馬界の人々の広く知るところとなった。
善哉氏の宣言には、厳しい条件を自ら設定し、さらに世間にも広めて逃げ道を封じることで、牧場の従業員、そして自分自身に強い危機感を持たせ、ダービーへの取り組みをよりいっそう強力なものとするという意図が込められていた。だが、この宣言はいささか時期が悪すぎた。その後2年間の日本ダービーは、ミスターシービーとシンボリルドルフという2頭の三冠馬の手に落ちた。ダービーどころかクラシック三冠のすべてを独占する歴史的名馬が2年連続で現れるという奇跡の前に、社台ファームの生産馬たちはまったく歯が立たなかったのである。
ミスターシービーの生産者である千明牧場は1938年に祖父である賢治氏の生産馬であるスゲヌマ、63年に父である康氏の生産馬であるメイズイ、そして83年に子である大作氏の生産馬であるミスターシービーと父子3代でダービーを制した名門牧場であり、シンボリルドルフの生産者であるシンボリ牧場の総帥和田共弘氏は、善哉氏のライバルとして当時の競馬界に並び称される存在だった。どうしてもダービーを勝てない善哉氏が目の当たりにした、ダービーを3代続けて勝った名門牧場と、サクラショウリに次ぐ通算2頭目のダービー馬を出したライバルの姿・・・。宣言の最後の年を前にした善哉氏が、ダービーへの思いをより強く、熱いものとしたことは想像に難くない。
そして迎えた宣言の最後の年。朝日杯を勝って3歳王者となったのは、社台ファームの生産馬であるスクラムダイナだった。また、このレースで1番人気に支持され、3着となったサクラサニーオーも、スクラムダイナ同様社台ファームの生産馬である。これらの結果は、世間に社台ファームの生産馬の層の厚さを思い知らせるものだった。前々年、前年のような確固たる傑出馬がまだ現れない中で、朝日杯の1着馬と1番人気馬(3着)を擁する社台ファーム、そして吉田善哉氏は、この時点では間違いなく、日本の生産者の中で最もダービーに近い位置にいた。
「今年こそはダービーを勝つ」
・・・その誓いに例年よりさらに強い力が入ったとしても、それはむしろ当然のことであろう。ダービーを勝つことを至上の夢として、その夢を現実のものとするためにあらゆる努力を尽くしてきた彼の誓いには、それゆえの重みがあった。
『1985年牡馬クラシック戦線』
朝日杯3歳S馬スクラムダイナは、日本ダービー制覇という至上命題を背負って1985年牡馬クラシック戦線に挑むことになった。この年のクラシック戦線では、本格化を前にして、シンザン記念(Glll)を勝ったライフタテヤマ、共同通信杯4歳S(Glll。年齢は当時の数え年表記)を勝ったサクラユタカオーといった有力馬たちの故障、戦線離脱が相次いだものの、スクラムダイナはそのような悲運とは無縁だった。
クラシックの季節の始まりを告げる弥生賞(Gll)は、5番人気のスダホークが、人気を背負ったサクラサニーオー以下に得意の重馬場を利して優勝し、クラシック戦線は波乱とともに幕を開けた。
当時の競馬界には、クラシックの展望は、スプリングS(Gll)を見なければ分からない、という見方が多かった。例年は弥生賞(Gll)から始動することが多い皐月賞の有力馬が、この年はなぜか弥生賞ではなくスプリングSに集中していたからである。
無敗の朝日杯3歳S馬スクラムダイナ、やはり無敗のまま阪神3歳S(Gl)を制した関西の雄ダイゴトツゲキ、三冠馬シンザンの最後にして最高傑作という呼び声高い2戦2勝のミホシンザン、新馬戦と黒松賞の勝ちっぷりが注目されるサザンフィーバー、3戦3勝のブラックスキー・・・。そんな面々が出走馬に名を連ねたスプリングSを制する馬こそ、皐月賞、そして日本ダービーへの最短距離にいるという見方は、オーソドックスなものだろう。
ところで、この年の牡馬クラシック戦線の特徴として、この時点ではなぜか有力馬が柴田騎手に集中していたことが挙げられ、先に挙げた有力馬のうちスクラムダイナ、ミホシンザン、そしてサザンフィーバーの3頭までが、柴田騎手のお手馬だった。そのため柴田騎手は非常に悩ましい選択を強いられ、その選択という意味でも、スプリングSは世間の注目を集めた。