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マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~

『黎明期の苦悩』

 名古屋優駿は、もともとは1971年に創設された「東海優駿」にルーツを有する伝統のレースである。「東海優駿」は東海地方の地方競馬所属の4歳馬たちの「ダービー」となることを目指したレースだったが、96年に全国交流競走に位置づけられるとともに「名古屋優駿」と改称され、97年のダートグレード競走の格付けでは、JRA勢にも開放されて統一Glllへと格付けされていた。この後、04年には統一Gllに格上げされたが、05年に名古屋競馬場がJBCを開催することになった際、その資金を確保するためという名目で統一グレードから撤退し、「東海ダービー」と名称を改めるとともに、8年続いたJRA勢への開放にも終止符を打って全国交流競走に戻っている。その後は紆余曲折を経て東海限定レースに戻り、現在に至っている。

 このように、ダートグレードの黎明期に二転三転したレースの歴史を見ると「迷走」という単語が頭に浮かぶが、その背景として、名古屋や笠松といった地元のホースマンたちにとってはこのレースが「東海競馬の頂点」という意識が非常に強かったことは、あげておかなければならない。そんなレースをJRAに開放した結果、初年度の97年こそ地元のシンプウライデンが勝ったものの、その後は7年続けてJRA勢に敗れ去ったことは、厳しい現実だった。中央勢に賞金を持っていかれるだけではないかという声には、全国から馬券の売上があがるという反論ができても、

「地元のダービー馬が地元から誕生しないのでは、目標という意識を持てない」

という声に対しては、言葉を失うしかない。

 もともとJRA勢と地方勢の間では、馬の質で大きな差があるうえ、この時期のJRAの番組は旧4歳春のダート重賞がなく(当時唯一のJRAにおける旧4歳重賞だったユニコーンSは秋開催)、同時期のダートOPである伏竜Sや昇竜Sの1着賞金は1900万円強なのに対し、名古屋優駿の1着賞金は3000万円だったことから、ダート適性のあるJRA勢が大挙して押し寄せてくる素地もあった。

 そんなレース事情からすれば、単なる2勝馬に過ぎないマイネルコンバットにとっては、フルゲート12頭の出走馬のうち最大4頭しか出走できないJRA枠に滑り込めるかどうかが、最大の問題だった。

 しかし、マイネルコンバットは、Crafty Prospector産駒の外国産馬で前年の全日本3歳優駿(統一Gll)の覇者アグネスデジタル、同じく兵庫ジュニアグランプリ(統一Glll)の覇者アドマイヤタッチ、端午S(OP)を勝ったレギュラーメンバーとともに、JRAからの出走馬として名古屋優駿のゲートにたどり着いた。ちなみに、この時除外されたメンバーの中には、後にJBCスプリント(統一Gl)など統一グレード6勝を挙げるものの、この時点ではマイネルコンバットと同じく2勝馬にすぎないスターリングローズもいた。

 こうしてJRA勢は数が揃ったものの、他地区枠は高知から来た黒潮皐月賞馬のオオギリセイコーただ1頭しかいなかったため、不足分は名古屋、笠松の地元勢が埋める形となった。第30回名古屋優駿が開催された2000年6月14日の前後をみると、同月7日は東京ダービー、同月14日は園田ダービー、同月16日は東北ダービー、同月18日は北関東ダービーと、各地方の世代別王者を決する大レースがこの時期に集中していた。地元の制圧も終わっていない地方馬たちが、この時期に東海地区に遠征してまで名古屋優駿を戦うことができるほど、当時のダート界は、まだ成熟していなかった。

『一線級との戦い』

 名古屋優駿当日の有力馬たちの単勝人気をみると、1番人気がレギュラーメンバー、3番人気がアグネスデジタル、4番人気がマイネルコンバットとJRA勢が上位を占めた中で、2番人気には笠松所属のミツアキサイレンスが入っていた。JRAの交流競走に指定された条件戦は3戦挑んで結果が出なかったものの、年初の東海ゴールドジュニアを制し、さらに前走の兵庫CS(統一Glll)では、園田に遠征し、園田勢だけでなくJRA勢をも完封し、アドマイヤタッチを軽くひねったミツアキサイレンスこそ、まぎれもなくこの年の名古屋優駿における地元、そして地方の総大将で、地元びいきの観衆の声援はこの馬に集まっていた。

 レースはレギュラーメンバーが先手を取ってレースを引っ張り、的場均騎手とコンビを組むアグネスデジタルが好位につけることで始まった。マイネルコンバットは、騎乗した8戦のうち7戦で掲示板を確保し、2勝を挙げている相性を買われて騎乗継続となった大西騎手とともに、アグネスデジタルの後方につけた。地元の期待と声援を一身に背負ったミツアキサイレンスは、中団よりやや後方からの競馬である。

 そして、勝負どころの2周目第3コーナー過ぎで、はや先頭をうかがう勢いで進出を開始したアグネスデジタルに対し、マイネルコンバットも外から押し上げていく。他の馬たちは、ついてこれない。あとは、アグネスデジタルとマイネルコンバットの2頭による一騎打ちになるかに見えた。

『覚醒する者たち』

 だが、アグネスデジタルとマイネルコンバットの間にも、小さからぬ差があった。馬群から抜け出した後も次元の違う末脚で後続を引き離していくアグネスデジタルに対し、マイネルコンバットはついていけなかった。それ以外の後続はみるみる置いていく末脚を使っているにもかかわらず、先頭との差だけが広がっていく。

 アグネスデジタルは、マイネルコンバットを1馬身半抑えて1着でゴールした。この日、アグネスデジタルが記録した勝ち時計は1分59秒8であり、このレースが東海優駿と呼ばれていた78年にイシノサミイが記録した従来のレコードタイム2分01秒02を22年ぶりに、それも1秒4も更新していた。

 このレースの結果は、アグネスデジタルの名前を高めるとともに、旧4歳ダート路線の勢力図を大きく塗り替えるに足りるものだった。もともとアグネスデジタルが人気を落としていたのは、全日本3歳優駿を勝った後、年明け以降はヒヤシンスS(OP)3着、クリスタルC(Glll)3着、ニュージーランドT4歳S(Gll)3着、そしてNHKマイルC(Gl)7着と、今ひとつの結果が続いていたためである。しかし、名古屋優駿で見せた走りの内容と結果は、覚醒を予感させるものだった。

 4番人気で2着に入ったマイネルコンバットも、2着に入ったことで本賞金を積み上げ、今後のローテーションを楽にすることはできた。もとは単なる2勝馬だったことを考えれば、十分に「好走」と言える。ただ、「好走」ではあっても、それ以上ではない。同じレースで姿を現した極星の輝きが強すぎたこともあって、彼の走りが注目を集めることはなかった。ちなみに、このレースの3着には地元・名古屋所属ながら人気薄だったブラウンシャトレーが入り、ミツアキサイレンスは4着、レギュラーメンバーは6着に沈んでいる。

 何はともあれ、名古屋優駿は決着した。同じ時期に各地で繰り広げられる世代王者決定戦が進むとともに、季節は第2回ジャパンダートダービーへと流れていく。

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