マイネルコンバット列伝~認められざるダービー馬~
『ジャパンダートダービー』
ジャパンダートダービーは、統一グレードが発足した翌々年の1999年に大井のダート2000mでの旧4歳限定戦として創設されたレースであり、創設と同時に統一Glに格付けされている。当時、旧4歳限定のダートGlはこのレースと盛岡のダービーグランプリしかなく、2006年にダービーグランプリが統一グレードを返上した後は、最高・・・というより唯一の世代別ダート王決定戦として機能してきた。
しかし、このレースの創設経緯は、統一グレード制が発足した97年とは微妙にずれている。その齟齬は、統一グレード草創期の世代別ダート王決定戦として構想されていた「4歳ダート三冠」をめぐる複雑な経緯を物語るものでもある。
統一グレード発足当初、南関東競馬がJRAのユニコーンS(Glll)、盛岡のダービーグランプリと並ぶ「4歳ダート三冠」の受け皿として用意したのは、96年に創設されたスーパーダートダービーだった。しかし、同じように「4歳ダート三冠」の一角を占めたい地方競馬は他にもあり、同じ96年には東海競馬が東海ダービーを名古屋優駿へと改編し、北海道競馬もグランシャリオCを創設して、翌年に始まるとみられていた統一グレード下での「4歳ダート三冠」に名乗りをあげていた。結局、スーパーダートダービーは、「4歳ダート三冠」の一角の地位こそ認められたものの、レースの格付けは、彼らが望んだ統一Glではなく、統一Gllにとどめられた。
この決定の背景には、86年に他地域との交流重賞として創設され、やはり96年にJRAにも開放された盛岡競馬場のダービーグランプリと、創設後間もないスーパーダートダービーとの歴史の違いに加え、統一グレード発足時に統一Glとして認められた地方競馬のレースは、南関東が4個、盛岡が2個で他の地方競馬がない中で、南関東をさらに突出させることが懸念されたとか、JRAのユニコーンSがGlではなくGlllだったことから、「ダート三冠」を名乗りながら、その3つのレースが「Glll、Gl、Gl」となる不均衡が嫌われたとか、様々な事情が理由として挙げられている。
しかし、紆余曲折の末にようやく立ち上がった統一グレードに対し、地方競馬の盟主を自認する南関東競馬は、強烈な不満を持った。そして、それに対する南関東の回答が、スーパーダートダービーを事実上廃止し、ジャパンダートダービーを新設するという99年の一方的なレース体系の変更だった。
結局、ジャパンダートダービーは、南関東競馬の強硬策が追認される形で統一Glとして認められて現在に至っている。初期の「4歳ダート三冠」が定着せずに立ち消えとなり、さらに06年には盛岡競馬場が財政難からダービーグランプリの統一グレードを返上したことで、ジャパンダートダービーは、唯一の世代限定ダート王者決定戦として機能することになる。芝から大きく遅れていたダート競馬のレース体系の整備が始まったばかりのころ、異なるレース体系を持つ様々な地方競馬の体制をひとつのレース体系に一本化するという壮大な目的は、そうそう容易に実現するはずもなく、いびつな点も多々あったのである。
『道は拓かれた』
閑話休題。名古屋優駿で2着に入って本賞金を加えたマイネルコンバットは、次走としてジャパンダートダービーに登録した。ただ、当初の情勢では、名古屋優駿からアグネスデジタル、レギュラーメンバーが引き続き出走登録を行ったことに加えて、条件戦2勝に共同通信杯4歳S(Glll)2着のジーティーボス、菖蒲S(OP)で3勝目を挙げたコンバットハーバー、さらに昇竜S(OP)で3勝目を挙げたマイマスターピースも登録してきていた。本賞金の順番で並べると、マイネルコンバットは、16頭のうち5頭しかないJRA枠に入るには次点にとどまってしまい、出走できないおそれも多分にあった。
ちなみに、ジャパンダートダービーの翌日には、旭川競馬場でグランシャリオC(統一Glll)が設定されていた。統一グレード制の導入を見越し、「4歳ダート三冠」の一角を占めるべく新設されたにもかかわらず、統一Glへの格付けどころか「4歳ダート三冠」からも弾き出されてレース体系の中で浮いた存在となってしまった統一GlllとされたグランシャリオCは、この年はジャパンダートダービーの翌々日に開催される日程となっていた。しかし、この年のマイネル軍団の中で新馬戦、500万下、OPとダート戦を3連勝した後NHKマイルC(Gl)14着、日本ダービー(Gl)18着と芝の大レースで惨敗し、ダート馬としての本質を顕わにしていたマイネルブライアンや、前年の兵庫JG(統一Glll)を勝っていたアドマイヤタッチといった賞金上位馬もグランシャリオCに回っているのに、マイネルコンバットは、ジャパンダートダービーの出走権に届かないのか。
そんな彼に道が拓けたのは、賞金上位馬の回避によるものだった。マイマスターピースが故障によって戦線を離脱し、さらにレギュラーメンバーも回避したことで、マイネルコンバットはJRA枠で出走可能になった。
当然のことながら、出走できない馬が勝つことは、絶対にない。マイネルコンバットによる統一Glへの道は、この時、拓かれたのである。
『ダービーに集う者たち』
第2回ジャパンダートダービーには、全国交流競走らしく、JRA5頭、大井6頭、船橋2頭、北海道・名古屋・笠松各1頭という16頭の出走馬が揃った。
そんな中で1番人気に推されたのは、名古屋優駿をレコード勝ちしたアグネスデジタルである。前走の東京優駿は10着に敗れたものの、ダートでは3戦2勝3着1回と底を見せておらず、今回は標的を「ダートのダービー」に転換してきたジーティーボスが2番人気でこれを追う。これに対して地方勢は、デビューから4連勝で南関東三冠の第一関門・羽田盃を制した(前走の東京ダービーは7着)イエローパワー、東京王冠賞を制したアローウィナーといった南関東クラシック馬たちが大将格の役割を担い、他地域からも名古屋優駿に引き続いて出走する笠松のミツアキサイレンス、前年の北海道3歳優駿(統一Glll)を制した北海道のタキノスペシャルらが集結した。
そんな中で、マイネルコンバットは単勝970円の5番人気と、決して人気の中心ではない。
ただ、主戦騎手の大西騎手は、わずか9日前にルネッサンスに騎乗してラジオたんぱ賞(Glll)を制している。これは、サニーブライアンで皐月賞に続いて逃げ切った日本ダービー以来となる3年1か月ぶりの重賞制覇だった。
日本ダービーで「人生が変わった」と言っても過言ではない大西騎手だが、実は「日本ダービーの連対率100%」でもある。87年にサニースワローで日本ダービーに騎乗してメリーナイスの2着に入り、そして97年のサニーブライアンで優勝と、20年間でたった2度のダービー参戦は、いずれも連対という素晴らしい成績を残しているのが大西騎手だった。そんな彼にとって、ジャパンダートダービーは、初めての騎乗機会となる。「ダートのダービー」とも言うべきこのレースに臨むにあたって、大西騎手は、果たして何を思ったのだろうか。