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タレンティドガール列伝 ~秋の淀に咲いた才媛~

 1984年4月27日生。2008年11月13日死亡。牝。鹿毛。千代田牧場(静内)産。
 父リマンド、母チヨダマサコ(母父ラバージョン)。栗田博憲厩舎(美浦)
 通算成績は、11戦4勝(旧4-5歳時)。主な勝ち鞍は、エリザベス女王杯(Gl)。

(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)

『美女を撃った才媛』

 かつて、ある名馬を管理した調教師が、こんな発言をしたことがある。

「競馬に絶対はない、でも、この馬には絶対がある」

 実際には、彼が「絶対」と称えた名馬もまた、生涯のうちに予期せぬ敗北を幾度か喫している。競馬に「絶対」が存在しうるとすれば、その瞬間、競馬は存在意義を失う。だからこそ、ホースマンたちはその時代に「絶対」と思われる存在を見出した場合、「絶対」の存在を否定し、競馬の存在意義を証明するために死力を尽くす。そうした心ある人々の思いと戦いが、競馬の歴史と伝統を築いてきた。

 1987年牝馬三冠戦線は、ありうべからざる「絶対」の名牝を中心に回っていた。マックスビューティ・・・「究極美」という意味の名前を持つ彼女は、桜花賞を8馬身差、オークスを2馬身半差で制しただけでなく、その他のレースも含めて8連勝を飾り、ついに牝馬三冠の最終関門・エリザベス女王杯(Gl)へと駒を進めた。前年にメジロラモーヌが史上初の牝馬三冠を達成したばかりだったが、最後の戦いを見守る当時のファンのほとんどは、マックスビューティが2年連続の快挙を達成することを望み、また確信していた。

 ところが、そんな彼らの目の前で、「絶対」は崩れ去った。彼らが信じた未来を突き崩し、歴史を未知へと誘い込むその鋭い末脚は、スタンドを包む歓声を悲鳴に変えた。「絶対」と言われた究極美を牝馬三冠の最終章で打ち破り、その野望を阻止したのは、くしくも「才媛」の名を持つタレンティドガールだった。それは、多くの人々の思いを背負ったサラブレッドが、競馬に「絶対」がないことを証明し、自らの手で未来をつくりあげた瞬間だった。

『母は偉大なり』

 タレンティドガールは、1984年4月27日、静内の名門牧場・千代田牧場で生まれた。千代田牧場は、タレンティドガールの誕生以前にも、1975年の天皇賞馬イチフジイサミ、82年のエリザベス女王杯馬ビクトリアクラウンらを輩出した実績によって競馬界にその名を知られた名門牧場で、21世紀になってからも多数のGl馬を送り出している。

 タレンティドガールの父は、ダービー馬オペックホースや南関東三冠馬サンオーイを輩出した名種牡馬リマンド、母は1勝馬チヨダマサコという血統になる。チヨダマサコの牝系は、遡っていくと小岩井農場、そして日本競馬史の誇る名牝ビューチフルドリーマーに行き着く古い歴史を持っている。

 そんな彼女の系統が千代田牧場へやって来たのは、タレンティドガールの曾祖母にあたるワールドハヤブサの代からだった。

 しかし、千代田牧場の高い期待を集めたワールドハヤブサとその子孫たちからは、なかなか活躍馬が現れなかった。ワールドハヤブサの長女・ミスオーハヤブサは不出走のまま繁殖入りし、その弟妹たちからも、これといった馬は出なかった。

 千代田牧場は、オーナーブリーダー兼マーケットブリーダーという経営形態をとっている。日本の馬産の大多数を占める専業マーケットブリーダーの場合、馬を馬主に売却した代金に収入を依存せざるを得ないことから、馬主に高く買ってもらえる牡馬が生まれると喜び、逆に値段が安くなる牝馬は嫌う傾向がある。しかし、マーケットブリーダーだけでなくオーナーブリーダーも兼ねている千代田牧場の場合、将来牧場に残したい牝馬については、売却するのではなく自己名義で所有する方針をとっている。牝馬は大きな賞金を稼いでくれる可能性は低いものの、競走馬としてもたらす賞金よりも、引退後に繁殖牝馬としてもたらしてくれる高価値の産駒による売上増を望むのが、千代田牧場の伝統的な経営方針とされてきた。

 ただ、そうは言っても、自己名義の持ち馬にした牝馬があまり走らないと、その牝馬が将来生む子馬の価値が上がってこない。それに、自分たちの意気、従業員たちの士気も、高まらない。

 当時の千代田牧場の当主・飯田正氏の妻である政子夫人は、持ち馬たちが走らないことを気にして、ミスオーハヤブサの初子が生まれた時、夫に

「この馬には、走りそうな名前をつけてくださいよ」

と頼んだ。

 すると、飯田氏は何を考えたのか、その子馬に「チヨダマサコ」と名づけてしまった。由来は読んで字の如く、「千代田・政子」・・・。政子夫人は怒ったというが、その名前は変更されることなく、チヨダマサコはそのまま競馬場でデビューすることになった。ちなみに、後になぜそんな名前をつけたのか聞かれた正氏は、

「お尻が大きいところが似ていたから」

と答えているが、本気なのか冗談なのかは判然としない。

『名前に込めた願い』

 さて、チヨダマサコは、デビュー戦を勝ったものの、その後2勝目をあげることができないままターフを去っていった。飯田氏は、やはり夫人に責められたのであろうか。

 しかし、チヨダマサコと入れ替わるようにデビューしたのが、彼女より1歳年下にあたるビクトリアクラウンだった。それまで期待に応える産駒を出せなかったワールドハヤブサの7番子、つまりチヨダマサコの叔母にあたるビクトリアクラウンは、デビュー戦こそ凡走したものの、その後怒涛の4連勝を飾り、「東の女傑」として春のクラシックの有力候補へとのし上がった。その後、脚部不安を発症してそれらのレースは棒に振った彼女だったが、8ヵ月後に復帰してクイーンS優勝、牝馬東京タイムズ杯2着を経て、エリザベス女王杯でついに同世代の牝馬の頂点に立ったのである。

 ビクトリアクラウンがエリザベス女王杯を制したことで、忘れられかけていたワールドハヤブサの一族は、再びその価値を注目されるようになった。そうなってくると、チヨダマサコに対する期待もいやおうなしに高まってくる。

 毎年サンプリンス、リィフォーといった種牡馬と交配されていたチヨダマサコが、3年目にリマンドと交配されて生まれたのがタレンティドガールである。彼女が生まれたのは、ビクトリアクラウンによるエリザベス女王杯制覇の1年半後のことだった。

 彼女に与えられた「タレンティドガール」という馬名には、千代田牧場の人々の特別な思いがこめられている。飯田夫妻の間に生まれた子供たちのうち三女は、若くして亡くなっていた。娘の夭折を深く惜しみ、悲しんでいた夫妻は、妻と同じ名を持つチヨダマサコの初子の牝馬に「スリードーター」と名付け、さらに1頭の牡馬を挟んで生まれた牝馬にも、彼女にちなんだ名前をつけることにした。

 タレンティドガールの馬名申請時は、最初、三女の愛称だった「ロコ」で申請したものの、なぜか申請が通らなかったという。そこで、才気煥発だった娘のために「タレンティドガール」で再申請したところ、今度は申請が通って馬名登録された。このように、千代田牧場の人々が彼女に寄せる思い入れは、ただごとではなかった。

『交差する出会い』

 千代田牧場の人々の期待を一身に受けて順調に成長したタレンティドガールは、やがて栗田博憲厩舎からデビューすることになった。

 菅原泰夫騎手を鞍上に迎えて臨んだタレンティドガールの新馬戦は、デビュー戦、折り返し戦とも2着に敗れるというほろ苦いものになった。彼女の初勝利は、通算3戦目となる未勝利戦でのことである。

 ちなみに、その時タレンティドガールの手綱を取ったのは、後にマックスビューティの主戦騎手となる田原成貴騎手だった。当時の田原騎手は、まだマックスビューティに騎乗しておらず、タレンティドガールの初勝利の翌週にマックスビューティ陣営から騎乗依頼を受け、バイオレットS(OP)・・・そして牝馬三冠戦線へと参戦していくことになる。

 もっとも、当時既にオープン入りを果たし、「大器」との呼び声も高かったマックスビューティと違って、タレンティドガールはまだ初勝利を挙げたばかりの1勝馬の身だった。クラシックすら視界に入ってきていない彼女に、83年、84年の2度にわたって全国リーディングに輝いた騎手を鞍上へ留めおくことができるはずもない。タレンティドガールとともに戦う騎手は、通算4戦目となる次走の桃花賞(400万下)では、またもや変わっていた。

 蛯沢誠治騎手・・・それが、この日タレンティドガールと初めてコンビを組んだ騎手の名前だった。彼こそが、その後タレンティドガールの主戦騎手として戦いをともにする男である。

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