タカラスチール列伝~想い出ぬすびと~
1982年4月16日生。1992年8月15日死亡。牝。黒鹿毛。鈴木実(静内)産。
父スティールハート、母ルードーメン(母父シャトーゲイ)。坂本栄三郎厩舎(美浦)
通算成績は、32戦8勝(旧3-7歳時)。主な勝ち鞍は、マイルCS(Gl)、クイーンC(Glll)、関屋記念(Glll)、カーネーションC(OP)、菖蒲特別(OP)。
(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)
『忘れじの面影』
「日本の近代競馬の始まりはいつなのか―」
という問いに対する答えにはいくつかの説があるが、比較的有力なのは、1867年に横浜の在留外国人たちが、それぞれの持ち馬を競わせたこととするものである。その時を出発点とするならば、日本競馬は、現在に至るまでの約150年以上にわたって、長い歴史を積み重ねてきたことになる。
歴史を築いてきた主人公は、多くの名馬たちと、さらに多くの無名馬たちである。・・・だが、歴史が150年にわたって積み重なってくると、かつて「名馬」と呼ばれた馬たちであっても、その存在感に差が出てくることは避けられない。歴史の中で永遠の輝きを放ち続ける名馬もいれば、ひとつの時代が去るとともに存在感が薄れ、やがて忘れられてゆく名馬もいる。
1986年のマイルCS(Gl)を制したタカラスチールは、早い時期から語られる機会が激減してしまったGl馬の1頭である。デビュー前から血統的には高い評価が与えられていなかったタカラスチールは、その低い評価を自らの実力によってはね返し、牝馬三冠戦線の第一冠・桜花賞では1番人気に支持されるほどになったものの、桜花賞での大敗を機に血統的な距離の限界を痛感し、オークス、エリザベス女王杯という牝馬三冠の残る二冠には、出走さえあきらめなければならなかった。
だが、彼女はそれで終わることなく、当時は現在ほど重視されていなかった短距離戦線に彼女だけの活路を見出した。そして、ついにはニッポーテイオー、トウショウペガサス、ロングハヤブサといった当時の名だたる一流牡馬たちを相手にマイルCS(Gl)を制し、中央競馬のグレード制導入後初めて、牝馬ながらに牡馬との混合Gl を勝つという快挙を成し遂げたのである。6番人気という低評価をはねのけた頂点の奪取は、非常に意外かつ見事なものだった。
しかし、彼女が最も輝いたのは、ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の三冠馬たちの時代と、平成三強時代の中間にあたる時期だった。絶対的な人気馬が不在の時期に、しかも現在ほど重視されていなかった短距離戦線で全盛を迎えたという間の悪さもあって、彼女に対するファンの印象は薄かった。さらに、非情な運命ゆえにその血を後世に刻みつけることも許されなかった女怪盗は、その静かで悲しい最期を知られることもなく、やがて移り気なファンから忘れられていく運命にあった。
その死から既に30年近い時が流れ、タカラスチールは今や競馬の歴史、あるいは「想い出」の世界にのみ生きる存在となっている。
だが、競馬が単なるギャンブルを超えた現在の地位を築くことができたのは、馬を単なる記号としてではなく、物語としてとらえたことにこそ最大の要因がある。同じものが何個でも存在しうる記号ではなく、同じものはふたつと存在しない物語としてとらえる以上、それをかけがえのない物語として後世に語り継ぐことは、競馬が競馬であるために必要な使命である。タカラスチールが郷愁の中にのみ生きる存在ならば、せめてその郷愁の中で永遠に生き続けさせることこそが、競馬を愛する者の務めというべきだろう。今回のサラブレッド列伝は、忘れられた名牝・タカラスチールの物語である。
『生まれながらの短距離馬』
タカラスチールは、1982年4月16日、静内の鈴木実牧場で生まれた。父はミドルパークS(英Gl)などを勝った短距離馬スティールハート、母は鈴木牧場の基礎牝馬ルードーメンであり、時は競馬の季節が本格化するさなか、ちょうどリーゼングロスが桜花賞を勝った5日後のことだった。
当時の鈴木実牧場は、「繁殖牝馬は5頭前後」という典型的な日高の中小牧場だった。ただ、鈴木牧場にとってのルードーメンは、他に替えがたい牧場の誇りだった。ルードーメンは、競走馬としては4戦未勝利に終わり、まったくモノにならなかったものの、鈴木牧場で繁殖入りしてからの彼女は、「三冠馬を破った馬」ウメノシンオーを送り出したのである。
ウメノシンオーといえば、1983年のラジオたんぱ賞(重賞)を勝ったステークス・ウィナーである。だが、彼はそのことよりも、1982年暮れのひいらぎ賞(800万下)で、翌83年のクラシック戦線の有力候補とみられていたミスターシービー・・・後の三冠馬に土をつけたことの方が有名であろう。その後のミスターシービーが三冠街道を突っ走ったことで、否応なく引き合いに出されるようになったウメノシンオーは、鈴木牧場にとって、ひとつの到達点だった。
タカラスチールの父は、ウメノシンオーの父である中長距離血統のファバージから、短距離血統のスティールハートに変わっている。ウメノシンオーの時にはクラシックを意識してルードーメンをファバージと交配した鈴木氏だったが、その2歳下の弟妹をつくるにあたっては、最初から短距離を意識して配合を決めていた。鈴木氏がルードーメンの交配相手にスティールハートを選んだころ、彼の産駒はまだ日本ではデビューしていなかったものの、彼自身は1200mまでしか距離の実績がなく、馬産地でも生粋の短距離血統と噂されていた。
翌春生まれた子馬は、牝馬ではあったが、非常にバランスのとれた馬体をしていた。自分の予想以上にいい子馬が生まれ、近所の牧場の人々が見学に来るという状況に気を良くした鈴木氏は、
「この子なら、きっといい買い手がつくに違いない・・・」
とひそかな期待に胸を弾ませていた。
『早すぎた誕生』
ところが、鈴木氏が期待した子馬の買い手は、実際にはなかなか見つからなかった。評判を聞いて子馬を見に来た調教師たちも、
「いい馬だ」
と褒め称えはするものの、いざ話を決めようとすると、途端に及び腰となった。
「中央ではムリだろう。地方の800mの競馬ならいいかもしれない・・・」
調教師たちを逡巡させたのは、子馬の血統・・・父・スティールハートに対する不信だった。鈴木氏が未知の可能性への夢を託したスティールハートだったが、調教師たちは
「スティールハート産駒は、早熟で奥行きがなさそうだ」
「一本調子のスピード馬で、3歳時は活躍してもクラシック戦線では用なしになるだろう」
と、その将来性を認めようとしなかった。中央競馬で短距離のレース体系が整備されたのは1984年のG制度導入と同時で、スティールハートの最高傑作となるニホンピロウイナーも、当時はまだ頭角を現していない。
「クラシックで期待を持てない馬は、一流馬たりえない」
という固定観念が根強かった時代に、あえて強い短距離馬をつくろうとした鈴木牧場の馬づくりは、時代をほんの少し先取りしすぎていたのである。
「地方競馬なら・・・」
と言われた鈴木氏だったが、彼は自分の自信作であるこの馬を、なんとしても中央で勝負させたかった。結局、彼らが期待をかけるウメノシンオーの半妹は、美浦の坂本栄三郎厩舎へと入厩し、「タカラスチール」と名づけられて走ることになった。騎手出身の調教師である坂本師は、騎手時代には菊花賞馬ラプソデーに騎乗して安田記念をレコード勝ちしたこともあるが、それよりは中山大障害2勝という障害騎手としての実績の方が有名である。調教師としては1970年にタマミで桜花賞、スプリンターズSを制しているが、当時はかつての栄光も既に色褪せ、1982年度、83年度とも、リーディングトレーナー50傑の中に坂本師の名前を見出すことはできない。