タカラスチール列伝~想い出ぬすびと~
『兄の死』
坂本厩舎の所属馬となったタカラスチールは、3歳の夏も本格化しないうちに海を越えて札幌競馬場へと渡った。翌年のクラシックをにらむ大物はまだデビューせず、3歳戦にすべてを賭ける早熟血統の馬たちが集まる季節。まだ芝コースがなかった札幌競馬場の、ダート1000mコース。それが、タカラスチールに与えられたデビュー戦の舞台だった。
そんな舞台だった新馬戦ですら、タカラスチールの単勝は、12頭立ての3番人気という地味なものだった。彼女の鞍上を務める佐藤吉勝騎手も、坂本厩舎の所属騎手だったからこそ騎乗機会がめぐってきたものの、1998年に騎手を引退した際の通算成績が1461戦80勝だったことからも分かるとおり、ライトなファンは名前すら知らなくとも不思議がない程度の目立たない騎手である。売りが「ウメノシンオーの半妹」という血統背景くらいしかなく、しかも父が短距離志向のスティールハートに替わっているとなれば、ファンからは注目されなくともやむを得ない。体質が弱く、厩務員をして
「カイバを食わなくて往生した」
と嘆かせたタカラスチールは、新馬戦をわずかハナ差で勝ったものの、その後はぱっとしない成績が続いた。札幌3歳S(Glll)、12番人気14着。函館に舞台を移して、クローバー賞(OP)、8番人気4着。・・・もっとも、人気と注目度を考えれば、その成績は「ぱっとしない」というより、単に順当なものだったといえるかもしれない。
その後、コスモス賞(400万下特別)に登録して2勝目を目指していたタカラスチールだったが、レースを1週間後に控えた時期に、彼女の半兄ウメノシンオーの訃報が流れた。3歳時にひいらぎ賞で後の三冠馬ミスターシービーを破り、4歳時もたんぱ賞(重賞)を制した実績馬ウメノシンオーは、放牧中の牧場での心臓麻痺のため、5歳の若さで急死したのである。1984年9月15日のことと伝えられている。
こうして兄の魂をも背負うことになったタカラスチールだったが、その翌週の土曜日に予定されていたコスモス賞は、出走馬が4頭しか集まらず、登録頭数不足で中止になってしまった。仕方なく翌日の函館3歳S(Glll)に回ったものの、同じくコスモス賞から回ったエルプスの逃走劇に手も足も出ず、12番人気とはいえ6着に敗退した。この時点でのタカラスチールに将来の姿を見出すことは困難であった。
『夢の予感』
しかし、馬が変わったようにタカラスチールの急成長が始まったのは、そのころからだった。カイバ食いの細さも、
「回数を増やして、いつも新鮮な状態でやってみろ」
という坂本師の意見で1日3回のカイバを4回にし、常に新鮮な状態のものを出したところ、馬もようやく食べてくれるようになった。カイバ食いがいいと、調教が実になり、馬体もみるみる充実していく。
北海道から本土へ戻り、東京競馬場、そして本土での初めての実戦となったサフラン賞(400万下)では、近走から特に高い評価を受ける理由もなく8番人気にとどまったタカラスチールだが、ここで2着に突っ込んでファンを驚かせた。次いで400万下の平場戦を勝ち上がったタカラスチールは、いよいよ重賞戦線へと乗り込んでいく。
年末のテレビ東京杯3歳牝馬S(Glll)に臨んだタカラスチールは、4番人気に支持された。断然の1番人気に推されたのは、これまで3戦3勝で新馬戦、新潟3歳S(Glll)、京成杯3歳S(Gll)を連勝してきたダイナシュートである。
ここですんなりと2番手につけたタカラスチールは、そのまま好位からの競馬を進めた。ダイナシュート、ナカミアンゼリカといった人気馬を後方に置いての競馬は、十分な余裕を感じさせた。
ただ、この時タカラスチールと佐藤騎手が見ていたのは、あくまでも背後の有力馬たちだった。彼らの前にいたただ1頭・・・函館3歳S(Glll)を逃げ切り、この日もすんなりと先手を取ったエルプスへの警戒は薄かった。やがて、レースの終盤に入ってから、後続に対しては強い競馬を見せたタカラスチールだったが、前走のすずかけ賞(OP)で最下位に沈んで評価を大きく落とし、11番人気まで落ちていたエルプスを捕まえることができない。
タカラスチールは、エルプスの大駆けの前に、1馬身半差の2着に敗れた。エルプスに敗れるのは、函館3歳Sに次いで2度目である。・・・とはいえ、この時点でのタカラスチールの戦績は7戦2勝、2着2回で、重賞2着の賞金も含めると、桜花賞への道は拓けたも同然だった。デビュー前の低い評判から言えば、上々の滑り出しであった。
『我が往くは桜舞う道』
タカラスチールは、85年に入ってからも休むことなく走り続けた。3歳時に既に7戦を消化し、本賞金によって桜花賞への切符もほぼ手中にしたタカラスチールは、本来なら年頭のこの時期をクラシックに備えての休養にあてても不思議はなかったが、坂本師はそうはしなかった。
テレビ東京杯3歳牝馬Sから中2週しか置かず、新春4歳牝馬S(OP)から始動したタカラスチールは、生涯初めての1番人気に支持された。相手関係の弱いここで順調に人気に応え、2着シールドに3馬身半差をつけて圧勝したタカラスチールは、いよいよクラシック戦線へと飛躍する。
新春4歳牝馬Sからも中2週でクイーンC(Glll)に出走した際、タカラスチールについて坂本師はこうコメントしている。
「タマミより上だよ・・・」
1970年に桜花賞を1番人気で逃げ切った名牝の名前まで出した坂本師の真意をいぶかるファンは多かったが、レースというものを知っているかのように常に好位から抜け出す卓越したセンス、休むことなく多くのレースに使われても決してばてない筋金入りのタフさを持つタカラスチールは、坂本師に自らの最高傑作を思い起こさせるに十分な素材だった。
ところで、タカラスチールと桜花賞前のタマミには、共通するひとつの不安があった。父・スティールハートの種牡馬実績が3歳戦、あるいは短距離戦に偏っていたタカラスチールと、やはり短距離血統とされていたカリムの子だったタマミ。
「果たして1600m持つのか?」
タカラスチールの距離適性を問われるたびに、坂本師はこう答えてきた。
「スティールハートの子にしては、胴長。マイルならなんとか持つのではないか」
タカラスチールにとって最初の1マイル戦となったテレビ東京杯3歳牝馬Sは2着だったものの、同じ距離での実戦経験を重ねることによって距離不安を克服するというのは、坂本師の基本戦略だった。坂本師にとって、同じように距離不安をささやかれながら、3歳時から月1走ずつ、年頭も休まず走り続けることで距離適性を確かめ、距離に慣れさせながらついには桜花賞馬まで登りつめたタマミの経験は、大きな自信になっていた。年頭のオープン特別を使ってクイーンCを走るというタカラスチールのローテーションは、まさにタマミと同じものだった。坂本師の視線の向こう側には、間違いなく桜花賞があった。
クイーンCでのタカラスチールは、ナカミアンゼリカを下して重賞制覇を果たした。
「これでマイルも大丈夫・・・」
自信を深めたタカラスチール陣営は、いよいよ桜花賞に向けて確かな一歩を踏み出したのである。