阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~
『明日に咲く花』
後続を完全に術中にはめたビワハイジと角田騎手は、十分に脚を温存したまま最後の直線を迎えた。エアグルーヴ、イブキパーシヴが追い上げ、中でもエアグルーヴは、最後の100mでマイケル・キネーン騎手の激しいムチに押されて火の出るような末脚を繰り出してきたものの、歴史的なスローペースで逃げてきたビワハイジの脚は、全然止まらない。後続の騎手たちのムチが、むなしく空を切る。
ビワハイジは、エアグルーヴに半馬身差をつけたまま、ゴール板を駆け抜けた。ゴールの瞬間、角田騎手は思わずムチを持った左手を天に高々と突き上げていた。
ビワハイジは、阪神大震災の災禍を経て新生した阪神競馬場での、最初のGlとなった第47回阪神3歳牝馬Sの勝者として、その名前を刻み付けた。同世代で初めて新馬戦を勝ち、重賞も手にした彼女が、今度は唯一の3歳Glへ、それも無敗の3連勝で駆け上ったのである。
「追い切りで騎乗した時、いいスピードがあると思った。折り合ったし、道中は楽。追い出してからもしっかり伸びてくれた」
とビワハイジを称えた角田騎手だったが、その直後にこう漏らしている。
「桜花賞でも乗せてもらえるなら、本当に楽しみなんですけどね・・・」
93年秋、彼はそれまで武騎手が騎乗していたノースフライトの騎乗依頼を受け、府中牝馬S(Glll)優勝、エリザベス女王杯(Gl)2着という実績を残した。しかし、その後ノースフライトの手綱は、再び武騎手に戻っている。翌94年春、角田騎手はそのノースフライトで安田記念(Gl)を制しているが、その時も武騎手が外国招待馬スキーパラダイスを選んだための代打騎乗に過ぎなかった。自分に選択権がないことを知っているだけに、それは角田騎手の本音であっただろう。
しかし、浜田師は
「勝因?角田君の好判断が大きいね」
として、この日の勝利が角田騎手の好判断にあることを認めていた。角田騎手は、レース前の浜田師の指示を「無視した」形になっている。だが、もし角田騎手が浜田師の指示を墨守し、前に他の馬を置くことへこだわっていたとしたら、馬を無理やり抑える形になり、せっかくの好スタートをも無にして馬群に沈んでいたに違いない。
浜田師も、調教師になる前は騎手だった。1951年6月3日、トキノミノルが勝った日本ダービーに魅せられ、騎手になりたいと言って、すぐに厩舎に弟子入りしたのである。・・・しかし、苦節6年、1957年に武邦彦と同期でデビューした浜田騎手の前に立ちはだかる現実はあまりに厳しかった。所属する厩舎にはたくさんの先輩騎手がいて、レースでの騎乗機会はほとんどなかった。騎手として1勝を挙げたものの、減量に苦しんだ挙句に体調を崩して入院し、ドクターストップをかけられて騎手免許の更新が許されなかったため、一度は騎手をあきらめて調教助手に転進せざるをえなかった。
それでも浜田「調教助手」は、騎手への夢を断ち難かった。わずか1勝での引退はあまりにも不本意で、騎手復帰への可能性を探り続けた。
「5年後に異常がなければ、再試験を受けてもいい」
というJRAの言葉だけを頼りに、その時を目指して頑張った。
そして彼は、5年後に騎手として復帰し、悲願の通算2勝目を挙げた。だが、その時周囲は、彼にこう勧めた。
「両目が開いた(2勝目を挙げた)から、もういいじゃないか・・・」
周囲は、浜田「騎手」の思いの真摯さを知っていたからこそバックアップしてくれた。・・・だが、復帰した後も支え続けようというほどの期待はかけていなかった。それが、現実であることに、浜田騎手は直面したのである。結局、それが彼の騎手としての最後の勝利となった。1957年に騎手となり、58年にいったん騎手を引退しながら63年に復帰し、そしてその年のうちに引退するまでの間で、彼が残した通算成績は、46戦2勝にすぎない。
「関東にいると、自分があまりに惨めに見えるから・・・」
浜田師は、調教助手に再転進する際、そんな悲しい理由で騎手時代に在籍した関東を去り、関西の厩舎へと移っている。
もし自分がビワハイジの騎手だったとしたら、失敗の責任をすべて負う形で角田騎手のような勝負に出ることができただろうか・・・?騎手としてはまったく実績を残せなかった浜田師だけに、自分にはできなかった騎乗・・・失敗を恐れず結果を出した角田騎手の騎乗に惜しみない賞賛を与え、角田騎手とビワハイジのコンビは、その後も継続されることになった。
『課せられた義務』
阪神3歳牝馬Sを制した後に休養に入ったビワハイジは、間もなく95年のJRA最優秀3歳牝馬に選出された。3歳牝馬にとっての唯一のGlである阪神3歳牝馬Sを、札幌3歳S以来の久々の実戦となったにも関わらず、いともあっさりと先頭で駆け抜けた彼女が、同世代の牝馬における実績ナンバー1であることは明らかである。3戦3勝、無敗の3歳女王。・・・この時点での彼女は、本来押しも押されぬ3歳女王の誕生と評価されても不思議はないはずだった。
しかし、一方で彼女の実力に対しては、
「展開に恵まれた」
という声も少なくなかった。「スローペースでの逃げ切り」という勝ち方は、何かとケチがつけられやすいものである。
「うまく立ち回ったという見方をされているのは確かだろうけれど、力のない馬が同じように逃げて勝てるかといえば、そんなことは絶対にない。もっとペースが上がっていれば、うちの馬ももっと速い時計で走れたはず・・・」
浜田師は、前記の声に対してそう反論している。とはいえ、競馬の世界においては、批判に対して答えるのは言論ではなく、結果である。ビワハイジもまた、こうした声に対してこたえるには新たな結果・・・クラシック戦線での実績をもって自らの実力を証明しなければならなかった。