阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~
『挫折』
ビワハイジの1996年・・・クラシックロードの始まりは、チューリップ賞(Glll)だった。ビワハイジ自身を含め、桜花賞を目指す牝馬たちが集結したこの日の出走表の中には、前走の阪神3歳牝馬Sでビワハイジの2着に食い下がり、レースの後にキネーン騎手が
「仕掛けが遅すぎた。この馬が一番強い競馬をしたのに・・・」
と悔やんだ馬・・・エアグルーヴの名前もあった。
阪神3歳牝馬Sというレースを見返した場合、超スローペースの中、直線で激しく追い込んでビワハイジとの差をつめたエアグルーヴの競馬が目立ったことは事実である。そのため、
「エアグルーヴこそが、世代最強・・・」
という声もあった。ビワハイジとして、エアグルーヴは最も負けられない相手であり、またチューリップ賞は負けられないレースだった。馬自身の仕上がりも、本番を見すえて余裕を残した仕上げだったにも関わらず、調教では素晴らしい動きを見せており、
「これなら・・・」
と納得できるものだった。
しかし、チューリップ賞当日、単勝270円のエアグルーヴを抑え、230円の1番人気に支持されたビワハイジは、阪神3歳牝馬Sとは違い、自ら逃げようとしなかった。
「阪神3歳牝馬Sでは、超スローペースになったのに他に行く馬がいなかったから、逃げる形になった」
という角田騎手は、この日はカネトシシェーバー、アジュディケーターが積極的に先手を取りに行ったのを見て、彼女たちを先に行かせた上で、好位から競馬を進める作戦を選んだのである。そんな彼女のすぐ近くには、眼下の敵であるエアグルーヴの姿もあった。
ところが、直線に入ってからのビワハイジとエアグルーヴの力関係は、阪神3歳牝馬Sとは全く逆転していた。鞍上をオリビエ・ペリエ騎手に替え、前走の屈辱を晴らさんがために力強く伸びゆくエアグルーヴに対し、ビワハイジはみるみる差を広げられてなすすべもない。
この日、ビワハイジは生涯初めての敗北を喫した。着順は2着であったが、最も負けてはならない相手に、それも5馬身差という決定的な着差をつけられての敗戦であり、陣営も力負けを認めないわけにはいかなかった。
『運命が分かたれた春』
チューリップ賞でエアグルーヴに敗れたビワハイジだったが、桜花賞(Gl)ではそのエアグルーヴが熱発で回避したため、ファンから本命視されることになった。
しかし、桜花賞を間近にしたビワハイジは、フケと歯替わりに悩まされていた。牝馬ならではの体調管理の難しさに直面しながら、そのことを公言することはできないというジレンマに悩むビワハイジ陣営の人々は、パドックで電光掲示板に表示された単勝オッズ・・・レース直前にリトルオードリーに逆転されるまで1番人気だった単勝オッズを見て、
「どうしてこんなに人気なんだろう・・・」
と思うはめになってしまった。そんな彼らの思いは、案の定レースではっきりと形に現れ、ビワハイジはまったく見せ場もないまま15着に沈んだ。
桜花賞の後はオークス(Gl)に続く牝馬クラシックだが、ビワハイジは、オークスではなく日本ダービー(Gl)へと出走することになった。だが、このニュースを聞いて
「なぜオークスではなくダービーなのか・・・」
と思ったファンは少なくないはずである。オークスとダービーは、いずれも東京の芝2400mコースで行われる。また、この年のダービーの出走馬を見ても、3歳王者のバブルガムフェローこそ故障で欠くものの、皐月賞馬イシノサンデーに同2着馬ロイヤルタッチ、皐月賞(Gl)を回避したとはいえ、プリンシパルS(OP)を圧勝したダンスインザダーク、2戦2勝の遅れてきた大器フサイチコンコルドらが揃い、「オークスより楽」という相手関係ではなかった。
ビワハイジは、93年にビワハヤヒデで2着に敗れ、ダービーを手にすることができなかった馬主の復仇を託された形となったが、その使命はチューリップ賞、桜花賞と敗れた彼女にはあまりに重いものだった。いつもいいはずのスタートも悪く、最後方からの競馬となって大外を回ったビワハイジは、直線での伸びすらも欠いたまま13着に沈んだ。しかも、悪いときには悪いことが重なるもので、レース後には左前脚第3中手骨骨折まで判明してしまった。ビワハイジがいないオークスはエアグルーヴが圧勝し、この時点で彼女たちの道は、決定的に分かたれた。
ビワハイジの4歳春は、3戦3敗、それもうち2戦は2桁着順という無惨な結果に終わった。彼女にとっての96年春は、3歳女王の失墜を象徴する季節であり、また漂流の時となってしまったのである。
『漂泊の果てに』
骨折の療養に入ったビワハイジは、翌97年春に帰厩し、一度は復帰間近な状態まで回復したものの、その後別の箇所をもう一度骨折し、復帰はさらに遅れてしまった。彼女が再び競馬場に姿を現したのはその年の秋、カシオペアS(OP)でのことだった。・・・骨折したダービーから、実に1年4ヶ月が経過していた。
復帰戦のカシオペアSでは5着に敗れたビワハイジだったが、次走では果敢にエリザベス女王杯へと挑んでいる。
「この馬がまたGlに出られると思うと、胸が詰まる・・・」
浜田師はそうコメントしたものの、現実はそうそう甘くなく、7着に終わった。次走の阪神牝馬特別(Gll)でも7着に敗れ、
「もう限界だろう」
「ビワハイジは終わった・・・」
という声も流れるようになった。かつて「ライバル」とも呼ばれたエアグルーヴは、ビワハイジが出走しなかったオークスを圧勝し、さらにビワハイジの復帰戦となったカシオペアSの翌週に府中で天皇賞・秋(Gl)に出走し、牝馬として17年ぶりとなる天皇賞制覇を果たしている。かつて2度にわたって戦い、1勝1敗という対戦成績を残したはずのライバルの背中は、もうはるか彼方に見えなくなっていた。
・・・だが、ビワハイジは「限界」「引退」という声に反発するかのように、京都牝馬特別(Glll)で、最後の意地を見せた。98年1月末、同期の桜花賞馬ファイトガリバーも含む京都牝馬特別の出走馬13頭の中で、ビワハイジの単勝は3番目だった。大外13番枠から好スタートを切ったビワハイジは、後続を引き離した逃げを打つと、さらに直線ではほとんどムチも入らずに二の脚を使い、2着ランフォザドリームに2馬身差をつけたまま逃げ切ったのである。
この勝利は、阪神3歳牝馬S以来2年2ヶ月ぶりの勝利であった。この日のビワハイジの鞍上には、チューリップ賞でエアグルーヴに騎乗し、ビワハイジの連勝を止めたペリエ騎手がいた。かつてライバルであった馬の騎手とともに勝利を挙げたこのレースが、彼女の最後のレースとなった。
京都牝馬特別の後、再び故障を発症したビワハイジは、そのまま引退することになった。ビワハイジの通算成績は10戦4勝で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬S、札幌3歳S、京都牝馬特別の3つである。
『好敵手たちの足跡』
無敗のまま阪神3歳牝馬Sを勝って3歳女王の地位に登りつめたビワハイジだが、その後の戦績はいまひとつだった、と言わなければならないだろう。ビワハイジの場合、比較すべき対象がどうしても同世代のエアグルーヴとなってしまうためになおのことである。
そんな彼女が、エアグルーヴと再度・・・それも歴史的な水準でのライバルとして蘇るなど、この時期には誰も予測ができなかったに違いない。
競走馬としての栄光を極めたエアグルーヴは、産駒も極めて優秀な成績を収めた。競馬場でデビューした11頭の産駒のうち10頭が勝ち上がり、4頭が重賞を勝った。その中でも、初年度産駒のアドマイヤグルーヴはエリザベス女王杯(Gl)連覇を達成し、香港クイーンエリザベスC(国際Gl)と国内重賞4つを勝ったルーラーシップの2頭がGl級である。それと同等以上の繁殖成績を求められたら、絶望的な気分になるだろう。
ところが、ビワハイジの繁殖成績はというと、競馬場でのデビューを果たした産駒はエアグルーヴと同じ11頭で、その全てが勝ち上がり、重賞勝ちは6頭、その中でもブエナビスタは阪神ジュヴェナイルフィリーズ、桜花賞(Gl)、オークス(Gl)、ジャパンC、天皇賞・秋、ヴィクトリアマイルを制し、ジョワドヴィーヴルも阪神ジュヴェナイルフィリーズ制覇、とGl勝ち馬が2頭である。重賞馬6頭を輩出した繁殖牝馬は、JRA史上、ビワハイジ以外に存在しない。
この2頭の繁殖牝馬としての成績は、まさに歴史的水準での戦いだったと言ってよいだろう。
歴史とは、無限の「未来」の中からただひとつの「現在」が積み重ねられ、やがて「過去」として固定されることで築かれていく。かつて「ありえない」と思われていた「未来」も、様々な「現在」の積み重ねの中で実現することがある。これは、競馬に限らない人間の営みの妙である。
ビワハイジは、競走馬としてはエアグルーヴのライバルの1頭として戦ったものの、後世に「女帝」という異名を確立したエアグル-ヴと異なり、彼女のライバルであり続けることはできなかった。だが、誰もがエアグルーヴの勝利に終わったと思った彼女たちの関係は、ビワハイジの誰も予期できない繁殖牝馬としての反攻によって、新たな物語が刻まれることになる。かつて同じ頂を目指し、同じ地平でしのぎを削りながら競馬場での戦いにすべてを賭けた彼女たちは、繁殖牝馬としても歴史に残る偉大な足跡を残したのである。これもまた、仁川早春物語のひとつである。
馬の生命そのものでありながら、馬ではなく人のためにつくられた競馬。そのふたつの顔は、彼女たちの栄光として賞賛されるべき勝利を仁川の早すぎた春に変え、悲しき早春物語を綴らせた・・・