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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~

『未知数での旅立ち』

 スエヒロジョウオーが誰かの注目を集めることもなく雌伏のときを過ごしていたさなかに、小泉氏にひとつの朗報がもたらされた。1991年秋、彼の生産馬であるイナズマクロスがクイーンS(Glll)を勝ち、小泉氏の生産馬として初めてとなるJRAの重賞制覇を果たしたのである。

 イナズマクロスは、小泉氏が

「どうしてもこの牝馬を牧場に残したくて、そのためには馬主になるしかないと思った」

として、自ら馬主資格をとって自分で走らせた牝馬だった。それだけに彼の喜びは深く、またひとつの目標を果たしたことで、

「今度はもっと大きなところを獲りたい!」

という思いも強まっていった。ただ、その小泉氏自身も、「もっと大きなところ」を獲る馬が、既に牧場の中を走り回っているとは思わなかっただろう。

 その年の11月、スエヒロジョウオーは北海道を離れ、冬も十分な乗り込みが可能な鹿児島の育成牧場へと旅立っている。鹿児島でも、スエヒロジョウオーの最も目立つ点は馬体の小ささで、この時計った馬体重は370kgだった。後にこの育成牧場の関係者から

「乗り味はしっかりしていたので、ある程度の期待はしていた」

というコメントもされているものの、「ある程度」がどの程度だったのかは、はっきりとは明かされていない。

『不人気街道、ただ1騎』

 スエヒロジョウオーは、やがて栗東の吉永猛厩舎へと入厩し、競走馬としてのデビューを目指すことになった。馬体が小さいために仕上がりは早く、スエヒロジョウオーは新馬戦が始まったばかりの第1回札幌開催で、6月デビューを果たすことになった。

 デビュー戦の舞台として芝1000mの牝馬限定戦を選んだスエヒロジョウオーだったが、彼女の単勝オッズは11610円で、12頭中10番人気という評価だった。もともと血統的に目立つ馬ではない上、この日の彼女の馬体重は394kgで、出走馬の中で軽い方から数えて2番目である。鞍上が田面木博公騎手というのもマイナー感を引き立てて、ファンの期待はまったく背負わないままのデビューだった。

 そして、このレースでのスエヒロジョウオーは、先行策をとったものの直線で失速し、勝ち馬から1秒7も離された8着に終わった。・・・とはいえ、最初から期待されていないのだから、失望されることもない。

 続く未勝利戦も、彼女は8頭中6番人気での出走となった。不良馬場という波乱要素はあるにしろ、彼女が1番人気オサイチベストに1馬身4分の3の着差をつけて勝つという結果を、レース前の段階で予測するのは、かなり困難だったに違いない。それは、まったく予想外の初勝利だった。

 スエヒロジョウオーの不人気街道は、その後も続いた。初勝利の勢いに乗って挑戦したはずの函館3歳S(Glll)でも、スエヒロジョウオーの単勝は10600円と、14頭だてのレースで堂々の14番人気だった。ここでなんとか掲示板を確保して5着に入った彼女だが、馬券に絡まないのでは、評価はあまり上がらない。続くりんどう賞(500万下特別)、きんせんか賞(同)とも単勝オッズは10000円を超え、それぞれしんがり人気、ブービー人気という始末だった。東京競馬場への遠征競馬で、生産者の小泉氏が

「ここまで人気がないと、私までバカにされてるような気分になったな」

と振り返るきんせんか賞が、その後のスエヒロジョウオーの運命に大きな意味を持つことになるなど、誰も知る由もない。

『目立たぬ大転換』

 きんせんか賞でスエヒロジョウオーに騎乗した田面木騎手は、府中の長い直線を意識し、それまで先行して好位から競馬を進めることが多かった彼女に最後方からの競馬をさせてみた。すると、直線に入ったスエヒロジョウオーは、突如予期せぬ輝きを放った。唐突に炸裂した小さな馬体の34秒7の末脚は、なんと直線だけで他の全馬を差し切り、先頭でゴールしてしまったのである。

 小泉氏は、この時の思い出について

「めまいがしたさ、くらくら、って」

としている。レース前のあまりに人気のなさに「悔しくて」勝ったという単勝は、100.6倍に化けていた。

 この日スエヒロジョウオーが差し切ったメンバーの中には、大器と噂されるワコーチカコもいた。ワコーチカコは後に20戦9勝、重賞も京都記念(Gll)など4勝を挙げ、次走のエリカ賞では後のジャパンC馬マーベラスクラウンをレコードタイムで破っている。吉永師、田面木騎手らは、自分たちが手にした思いもかけぬ成果に驚き、喜びながらも

「この馬は、後方待機の末脚勝負がいいのかもしれない・・・」

と思い直した。そういえば、5着に入った函館3歳Sも、後方待機策からの末脚に賭けた競馬だった。それまで馬体の小ささゆえに馬群に包まれることを恐れていた彼らだが、結果は逆である。ならば、理屈で難しく考えることをやめ、見たままの結果に従ってみた方がいいのではないだろうか・・・?それは、スエヒロジョウオーに、そして歴史に大きな影響を与える発想の転換だった。

 何はともあれ、きんせんか賞で2勝目を挙げたスエヒロジョウオーは、オープン馬の仲間入りを果たした。次なるレースはただひとつ、1992年の3歳牝馬チャンピオンを決定する、第44回阪神3歳牝馬Sである。・・・きんせんか賞を勝ったことにより、スエヒロジョウオーはGlのゲート、そして未来への切符を手にしたのである。

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