阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~
『交錯する評価』
第44回阪神3歳牝馬Sに、通算5戦2勝の戦績とともに参戦したスエヒロジョウオーの鞍上には、うち4戦をともにしてきた田面木騎手の姿があった。
田面木騎手は、関東・高松邦男厩舎の所属騎手である。そんな彼がこれまで関西馬のスエヒロジョウオーに騎乗してきたのは、札幌デビューの際、北海道シリーズでの都合を優先して決めたからだった。北海道シリーズが終わった今となっては、馬と人の本拠地の違いによるすれ違いが現実のものとなる。きんせんか賞でスエヒロジョウオーがわざわざ東京に遠征したのも、田面木騎手が乗りやすいレースに出したい、という配慮があった。だが、出走するレースが重賞、それもGlとなるとそうはいかない。
吉永師は、迷っていた。阪神3歳牝馬Sで田面木騎手に騎乗を依頼した場合、田面木騎手は、阪神3歳牝馬Sのためにわざわざ阪神まで来ることになる。所属厩舎である高松厩舎の所属馬に都合よく阪神遠征の予定があるとは限らず、彼の個人遠征を認めてくれるかどうかわからない。それに、関東を本拠地としていて関西では名が売れていない田面木騎手に、メインレース以外のレースでの騎乗依頼はほとんどないだろう。勝ち負けの期待もできるくらいの上位人気馬ならさておき、賞金圏にも入れず馬場を回ってくるだけに終わる可能性も高いスエヒロジョウオーのためだけに田面木騎手を連れてくるのはいかがなものか、というのが彼の悩みだった。
しかし、吉永師から電話を受けた田面木騎手には、何の迷いもなかった。
「ぜひ乗せてください、1頭だけでも乗りに行きます!」
・・・実際に、レース当日の田面木騎手の騎乗予定は、メインレースのスエヒロジョウオーただ1頭だった。それでも、彼はそのひとつのレースに乗れることがうれしかった。未勝利戦での初勝利の思い出、そして前走のきんせんか賞の直線で感じた手応えが、彼を奮い立たせた。
この日、スエヒロジョウオーの単勝オッズは3590円で、16頭だての9番人気だった。馬体重の390kgは、出走した馬たちの中でも一番軽い。とはいえ、生産者の小泉氏は
「さすがGlのメンバーが揃ったとしても、結構シルシがつくと思ってたのに9番人気。ハラクソ悪い。そういうもんですよ、自分の『子』ですから」
と悔しがったが、田面木騎手は、スエヒロジョウオーの実力を引き出せば、ファンの評価を覆し、見返すことも可能なことを知っていた。
『波乱の前兆』
レースの始まりを告げたのは、人気薄のプランタンバンブーによる逃げだった。しかし、函館3歳S(Glll)優勝をはじめ3戦2勝の実績を残して2番人気に推されたマザートウショウ、そして小倉3歳S(Glll)優勝をはじめ4戦3勝3着1回の実績を残して1番人気に支持されたマルカアイリスを抑えた先導役の積極策は、緩急定まらない乱ペースを演出する結果となった。
前半800mの48秒9という数字だけを見ると、流れはむしろスローペースで、消耗戦とはほど遠いように思える。しかし、プランタンバンブーが形成した前半のペースを見てみると、最初の200mこそ12秒6だったものの、その後11秒4、13秒2、11秒7・・・と、13秒台と11秒台を交互に繰り返している。競走馬として未完成な3歳牝馬に、このような乱ペースに対応しろというのは酷な話である。
だが、後方からレースを進めたスエヒロジョウオーは、先行勢が過酷な展開に心身をすり減らしている間も、自分のペースを比較的守ることができた。
「前に馬がいないとかかってしまうので、前半は馬群の内に潜り込ませて(後方で)待機しました」(田面木騎手)
という作戦は、きんせんか賞で見せた豪脚を繰り出すために田面木騎手がたどり着いた当然の帰結にすぎなかったが、それが同時に、彼女を前方の乱ペースから守る役割をも果たしたのである。
彼女たちのレース運びの差は、後半を迎えると、いよいよ表面に現れ始めた。第3コーナーで早めに動いたマルカアイリスは、一度は先頭に立ったものの、脚に伸びがないまま直線に入って間もなく力尽き、さんざんよれて周囲を混乱させたまま、馬群へと沈んでいった。マザートウショウも直線に入って勝負に出たものの、やはり勢いがない。スタートからプランタンバンブーの逃げを追いかけた先行勢たちは、平均的なペースで走り続けるならいざ知らず、百戦錬磨の古馬すら戸惑う乱ペースに巻き込まれたことで、最後の末脚を根こそぎ奪われていた。
そんな中で、田面木騎手はスエヒロジョウオーを馬群の外へと持ち出した。彼女の小さな馬体に、自分より大きな馬体を弾くようなパワーはない。それだけに、馬群に包まれると致命的なロスとなってしまう。その心配がなくなったところで、田面木騎手はついにゴーサインを出した。
『12万馬券の衝撃』
どの馬が「生き残る」か。そんな厳しいサバイバル・レースとなった3歳牝馬の女王決定戦で、前半の乱ペースに巻き込まれることがなかったスエヒロジョウオーは、直線でも十分な脚を残していた。手綱から伝わる彼女の雰囲気を感じた田面木騎手は、
「いける!」
と確信を持った。彼が感じた手応えは、きんせんか賞でのそれと同じものだった。
田面木騎手に導かれ、スエヒロジョウオーは外から鋭く飛んできた。終盤でマザートウショウ、マリアキラメキといった人気馬たちをかわし、馬群を突き抜ける。後方からは伏兵マイネピクシー、カシワズビーナスが追いすがるものの、スエヒロジョウオーの勢いには及ばない。
スエヒロジョウオーは、2着マイネピクシーに1馬身差をつけてゴールに駆け込んだ。スタンドを埋めた観衆は、思わぬ波乱を目の当たりにして、静寂とざわめきに包まれた。そんな空気を大きく変えたのは、掲示板で配当が発表された時のどよめきだった。9番人気が優勝し、2着に13番人気を連れてきた馬連の配当は、実に120740円。JRAのGl、そして重賞史上最高となる配当額に、スタンドが揺れた。
スエヒロジョウオーのGl戴冠は、当事者たちにとってすら衝撃的なものだった。レースの後、吉永師は
「それにしてもびっくりしました。おしまいは確実に伸びてくれる馬だとは思っていたけれど、まさか勝つことまでは想像できませんでしたからね」
というコメントを発している。また、この日阪神競馬場に出かけていた生産者の小泉氏も、レース前には低い人気に腹を立てていたにも関わらず、実際に勝ってみると、
「自分がGlに縁があるとは思ってないもの・・・」
と震え上がり、表彰式では緊張のあまり顔面蒼白のまま表彰台に上がり、後で息子にからかわれた、とのことである。ちなみに、小泉氏はこの時スエヒロジョウオーの単勝馬券と複勝馬券しか買っていなかったが、奥方は「馬連総流しで1000円ずつ」買っていたという。高配当馬券に関するエピソードを拾う際、夫婦で馬券を買う時は、夫が取れずに妻が取る、というパターンが多い気がするが、単なる気のせいであろうか。
ただ、田面木騎手だけは、
「(未勝利戦の時に)これはいい脚を使う馬だ、と感じたんです。きんせんか賞でも直線で物凄い脚を使ってくれたので、うまく展開さえはまってくれれば、ここでも面白いんじゃないかと期待していたんです」
とコメントしており、この勝利が単なるフロックではないことを匂わせている。吉永師も、わざわざこのレースに乗るためだけに阪神競馬場へやって来た田面木騎手について
「(田面木騎手には)今から思うと勝算があったのかもしれない」
と評しており、あまたの関係者の中でも田面木騎手がスエヒロジョウオーを最も高く評価していたことは、間違いないといえるだろう。
『か弱き3歳女王』
何はともあれ、スエヒロジョウオーが勝った第44回阪神3歳牝馬Sは、「馬連配当、120740円」の衝撃とともに、JRAの歴史に刻まれた。
・・・ただ、もともと人気薄での勝利は「フロック」と評価され、その馬の評価においては大幅に割り引かれることが多い。
この日のレース自体の評価は、必ずしも勝ち馬の評価を高からしめるものではなかった。もともと「本命不在」のレースであり、また16着に降着(12着入線)となったマルカアイリスの斜行による馬群の混乱もあった。さらに、スエヒロジョウオーの「1分37秒9」という勝ちタイムは、91年に牝馬限定戦となってから現在(2021年11月)までの阪神3歳牝馬S(後身の阪神ジュヴェナイルフィリーズを含む)の歴代勝ちタイムの中でも、最も遅い。このタイムを、牡牝混合戦だった前身の阪神3歳Sと比較した場合も、これより遅い勝ちタイムを見出すためには、70年のロングワン(1分39秒0)まで遡らなければならず、しかもこの時は不良馬場だった。良馬場に限定するとすれば、65年のニホンピローエース(1分38秒2)まで遡ることになる。同コースの桜花賞(Gl)と比較しても、良馬場で行われたレースとしては70年のタマミ(1分37秒9)と同タイムという超スロー決着であり、当時の水準でも「20年遅れた」勝ちタイムである。
スエヒロジョウオーの関係者たちは
「この後は、暖かくなるまで間隔をあけてやるつもり。桜花賞という目標があるからね」(吉永師)
「まだまだ先がありますからね。クラシックが本当に楽しみなんですよ」(田面木騎手)
と桜花賞に向けて新たな情熱を燃やしていたが、彼ら以外はスエヒロジョウオーに対して「フロック」という意識を持っていた。スエヒロジョウオーは92年のJRA最優秀3歳牝馬に選出されてはいるものの、記者投票では176票中137票しか集めていない。彼女と未対決の有力牝馬がいたわけでもなく、票数2位は阪神3歳牝馬Sで破ったはずのマザートウショウ(29票)だったことからも、スエヒロジョウオーへの評価はうかがい知れる。「3歳女王」「Gl馬」としてのスエヒロジョウオーの基盤はあまりに弱く、彼女に対する一般的な評価は、この時期からかなり懐疑的なものだった。