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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(上)~

『神話の終焉』

 こうして3歳女王となったヤマニンパラダイスだったが、そんな彼女は外国産馬・・・外国の牧場で生まれたがゆえに、クラシックには出走すら許されないという宿命にあった。

 桜花賞(Gl)への道を持たないヤマニンパラダイスは、ニュージーランドトロフィー4歳S(Gll)で戦列に復帰した。通算3戦3勝、レコード3度という希代の戦績を引っさげて戦いに臨んだ彼女は、それまでの戦績が4戦3勝、3着1回(朝日杯3歳S)という牡の外国産馬コクトジュリアンを抑え、単勝210円の1番人気に支持された。このレースを勝つことは、3歳時に伝説と呼ばれるにふさわしい戦績を残した彼女が、自分自身が「早熟馬」という領域にとどまらない存在であることを証明し、新たな段階へと進むために不可欠の条件となるはずだった。

 ところが、その大切なレースで、ヤマニンパラダイスは敗れ去った。それも、勝った7番人気のシェイクハンドから0秒5遅れた6着という、言い訳のしようがない惨敗だった。

 勝ち馬のシェイクハンドは、ヤマニンパラダイスと同じ牝の外国産馬である。人気薄での勝利であることに加えて、彼女の1分35秒3という勝ちタイム自体がニュージーランドトロフィー4歳Sの歴代勝ちタイムに比べて速いものではなかった。1983年に創設されて以降、13回目のこの日までずっと東京1600mコースで行われてきたこのレースの勝ちタイムとしては、レコード級どころか7位タイにすぎず、88年にオグリキャップが記録した1分34秒0のレースレコードとは比べるべくもないものだった。

 ヤマニンパラダイスは、そんなシェイクハンドからすらも0秒5遅れてゴールした。彼女のレコード神話と不敗神話は、この日をもって終わりを告げたのである。

 ヤマニンパラダイスは、その後故障を発症して戦列を離れた。神話の終焉とともに、3歳時の輝きにすら不安の影を投げかけられ、「早熟馬」という疑惑を持たれたまま、彼女の姿はターフから消えた。

『失われた輝き』

 翌96年3月に復帰したヤマニンパラダイスは、完全に「普通の馬」になっていた。その後の彼女は、かつてのようなレコード勝ちはもちろんのこと馬券に絡むことすらなく、6戦敗北を重ねてそのまま再びの休養に入ってしまった。

 その後、年末に復帰したヤマニンパラダイスは、阪神3歳Sと同じ阪神芝1600mで行われたポートアイランドS(OP)で約2年ぶりに勝利を挙げた。ただ、その勝利に3歳時のようにファンをひきつける輝きは既にない。ヤマニンパラダイスが古馬になったにもかかわらず、この日の勝ちタイムである1分34秒5は、阪神3歳牝馬Sより0秒2速いだけだった。

 97年に入ってからのヤマニンパラダイスは、1マイル以下の短距離戦線を歩んだものの、結果はいまひとつだった。97年2月に定年によって調教師を引退する浅見国一師の管理馬として臨んだ最後のレースである1月末の京都牝馬S(Glll)も、エイシンバーリンにクビ差の2着に敗れている。

「勝つつもりでいたんですよ・・・」

 だが、そんな老伯楽の最後の願いも、「最後の女」であったはずの彼女には届かなかった。

 管理調教師が浅見国一師から息子の浅見秀一師に代わったことも、彼女の浮上のきっかけにはならなかった。彼女が97年に残した2着1回、3着2回、着外3回という結果は、全盛期の彼女を知る者からすればあまりに寂しいものである。そして、現役最後のレースとなった安田記念(Gl)で12着に沈んだ後、彼女の両前脚骨折が発覚した。獣医は、競走能力喪失という冷徹な診断を下した。

 ヤマニンパラダイス、1994年JRA最優秀3歳牝馬。通算成績は17戦4勝。ポートアイランドS優勝はあるものの、3戦連続レコード勝ちで同世代の牝馬の頂点に登りつめた経過からすれば、不完全燃焼の感は否めない。

 もともと「繁殖牝馬としての期待をかけて」購入されていたヤマニンパラダイスは、錦岡牧場で繁殖入りした。ヤマニンパラダイス産駒からは、京成杯(Glll)馬ヤマニンセラフィム、阪神ジュヴェナイルフィリーズ(Gl)2着のヤマニンアルシオンらが出ているが、2018年12月7日に死亡したという。

『惜春賦』

 ヤマニンパラダイスを語る場合、常につきまとうのは「早熟」という評である。客観的な成績を見る限り、彼女の成長が3歳時で止まってしまったとみられても仕方のない側面もある。そのデビューがあまりに鮮烈だっただけに、その後の落差もまた大きく感じられ、

「3歳時だけで燃え尽きた」

という否定的な評価がなされることもやむを得ないのかもしれない。

 だが、3歳戦の価値が軽視されがちな日本競馬では、彼女の春こそがまさに「早すぎた春」であった。彼女に桜花賞という舞台が与えられていたとしたら、3歳時にすべてを燃やし尽くすことはなかったかもしれない。彼女の春は、早すぎたがゆえに暖かな陽射しを競馬界にもたらすことなく去ってしまったのではないか・・・?ヤマニンパラダイスの失われた春を惜しむ声も、決して少なくない。

 浅見師が「私の最後の女」と呼び、また「メイヂヒカリと同じくらいまである」とまで評したヤマニンパラダイスの全貌は、ついに競馬場では明かされることがなかった。それは彼女自身の失敗でもある。

 だが、ヤマニンパラダイスの3歳時の戦績は、間違いなくひとつの独立した恒星の輝きだった。3連続レコード・・・そんな空前絶後の戦いとともに輝いた煌きは、その後の戦いの戦績いかんによっても失われるものではない。また、彼女の物語は、その血を通して後世へとつながっている。夢が血を通して後世へと紡がれている限り、サラブレッドの物語も終わらない。そして何より、あの時我々は、確かにヤマニンパラダイスの背中に、かつて見たことのない無限の明日を見た。それだけで十分なのかもしれない。

 もし我々が彼女のすべてを語ろうとするならば、仁川のターフをレコードで駆け抜けた彼女の輝きを、決して軽視してはならない。「早熟」というわずか2文字の漢字で語り尽くすには、3歳戦線で彼女が残した輝きはあまりに強すぎる。我々が惜しんだ春が、いつか彼女の子孫によって再来する日は来るのであろうか。

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