ノーリーズン列伝~Rebel Without a Cause~
『ブレット・ドイル』
ブレット・ドイル騎手は1988年に英国でデビューし、95年にはサイエダティでサセックスS(英Gl)、97年にはエアイクスプレスでイタリア2000ギニーとドイツ2000ギニーを勝っている。さらに香港にも活躍の場を広げていたドイル騎手は、この年、二ノ宮敬宇調教師と有力馬主の伊達敏明氏を身元引受人として初めてJRAの短期免許を申請し、2月20日から4月19日までの免許を認められて来日していた。
もっとも、海外の騎手が短期免許で来日したからといって、騎乗馬に恵まれるとは限らない。ドイル騎手も、欧州での実績があるとは言っても知名度は今ひとつであり、まして初来日ともなればなおさらだった。日本での初勝利を挙げるまでに32戦を要し、その後も人気馬に騎乗する機会があまりないまま2ヶ月を過ごした彼は、皐月賞までに89戦に騎乗したものの、1番人気の馬に騎乗したのはわずかに1回(1着)、2番人気の馬も5回だけという状態だった。この騎乗馬で7勝、2着7回という結果を残しているのは、立派というよりほかにない。
それでもドイル騎手のもとに有力馬からの騎乗依頼が舞い込むことはなく、彼の来日期間で最後のJRA開催日となる皐月賞当日も、メインレースでの騎乗予定馬はいなかった。
ドイル騎手は、池江師の騎乗依頼を受けた。無論、依頼を受けたからと言って、皐月賞に出走できるとは限らない。だが、初めての短期免許での日本遠征の最後に、彼の祖国では衰退しながら極東の島国でいまだに息づく「クラシック三冠」の一角に騎乗するチャンスが舞い込むならば、それを見逃す手はなかった。
『天運』
鞍上にドイル騎手を確保し、出走への一縷の希望を託して皐月賞への出馬投票を行ったノーリーズン陣営だったが、案の定現実は厳しく、出馬投票の時点での登録馬は、出走可能頭数の上限である18頭を大きく超えていた。トライアルで獲得した優先出走権ないし本賞金上位で出走が確実な16頭の中に、ノーリーズンは含まれていない。優先出走権を持たない馬たちの中で出走へのボーダーラインである本賞金800万円の2勝馬は、彼自身を含めて7頭が登録していた。
ノーリーズン陣営の野望は、7分の2の確率となる抽選に託されることになった。ここをくぐり抜けることができなければ、彼らの皐月賞はゲートに入ることすらなく終わる。運命を左右するのは人事を超えた天命しかないだけに、祈る以外の方法はない。
しかし、運命の女神はノーリーズンにほほ笑んだ。7分の2の幸運を手にしたのは、マイネルリバティーとノーリーズンだった。この時除外された中には、逃げ馬ゆえの暴走で前走のスプリングSを6着と取りこぼしたものの、大器と噂され、後にGllを4勝するローエングリンもいた。
どんな期待馬、素質馬であっても、レースに出走できなければ勝利はありえない。ダービー制覇を悲願とする「マイネル軍団」の総帥・岡田繁幸氏が前年の夏に「2002年のダービーはこの馬で獲る」と宣言して話題になったものの、7戦2勝と伸び悩んでいたマイネルリバティーと、「ロスマリヌスの半弟」として注目を集めながらも若葉Sの惨敗で失墜していたノーリーズンだけがその関門を乗り越えた。池江師は、
「運が向いてきた」
と感じていた。この馬は、皐月賞を勝つために必要な何かを持っているのかもしれない。何せ、彼らの夢を数日先の本番まで生き残らせた要因は、間違いなくノーリーズン自身の天運だったのだから・・・。
『生き残るために』
こうして皐月賞への切符を手にしたノーリーズンだったが、当然のことながらファンの注目を浴びる存在ではなかった。第62回皐月賞当日の単勝オッズは、1番人気のタニノギムレット(260円)を筆頭にローマンエンパイア、モノポライザーまでの3頭が3桁配当という構図の中で、新馬戦、500万下特別を連勝したとはいえ、前走の若葉Sで7着と底を見せた形のノーリーズンは、実に単勝11590円の15番人気にとどまっており、それを不当な低評価と思う人もいなかった。
やがて、18頭の出走馬を取り巻く人々の夢と野望が絡み合う中で、第62回皐月賞が幕を開けた。このレースの先手を取ったのは、きさらぎ賞(Glll)を勝ったメジロマイヤーである。
メジロマイヤーは、生粋のスプリンターとして知られたサクラバクシンオー産駒だった。彼自身も父と同様に粘り強い先行力を武器とし、逃げて結果を残してきた。だが、この日はメジロマイヤーのすぐ後ろからダイタクフラッグ、その後ろからも大きな差がない状態でバランスオブゲーム、タイガーカフェが追走してくる展開となった。これでは、ハイペースが約束されたようなものである。
ノーリーズンとドイル騎手は、この日はスタート直後のダッシュがつかず、それまでのノーリーズンの定位置より後ろの中団にとりついている・・・ように見えた。ドイル騎手は、レース前に骨折療養中ながら中山競馬場へ来ていた武騎手をたまたま見つけてノーリーズンの印象を聞いている。この時武騎手から
「この馬は、なるべく前に、前につけないと勝てないよ・・・」
というアドバイスをもらい、先行策を考えていたというドイル騎手にとって、それは不本意な位置取りのはずである。・・・だが、それはあくまでもレースが普通の流れのときのこと。先頭の1000m通過が59秒2のハイペース、それも息も入らない展開で先行馬たちからスタミナが削られていくサバイバル・ゲームとなれば、話は変わってくる。
ドイル騎手は、「中団」という位置に騙されることなく、そこから手綱を抑えて先行争いに巻き込まれない策を採った。彼らのペースがいつもどおりでも、先行勢がハイペースを形成したなら、彼らの位置取りがいつもより後方になるのも道理である。むしろ先行勢とは距離を置き、吊り上がるペースからノーリーズンを守ることこそが、ドイル騎手の新たな課題となっていた。