オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~
『サッカー狂の詩』
やがて、予定通りに加藤厩舎からデビューすることになり、馬名も「オフサイドトラップ」に決まった。馬主は、渡邊父子の話し合いによって、息子である隆氏として登録された。
もっとも、喜八郎氏と隆氏の場合、「所有者はどちらかに決めなければならないから決める」だけで、当事者たちの感覚は「共有」に近いものだとのことである。名義をどちらにするかにも深い理由があったわけではなく、隆氏いわく、この時期には「血統がいい馬は親父、動きがいい馬は私」といった形で振り分けていたそうである。
ちなみに、「オフサイドトラップ」という馬名は、隆氏のサッカー好きに由来するものである。隆氏は、馬主の中でも有数のサッカー好き・・・というより、慶應義塾大学所属時には体育会ソッカー部に所属していたという、本物の元プレイヤーだった。自らのサッカーとの関わりに誇りを持つ隆氏は、1993年のJリーグ開幕直後にサッカー・ブームが巻き起こり、それまでサッカーに見向きもしてくれなかった「にわかファン」が大量に発生するのを横目に見ながら、
「Jリーグが始まった時以降のにわかファンではないんだぞ」
という思いを込め、当時のサッカー界ではよく使われるサッカー用語だった「オフサイドトラップ」を馬名として命名した。トウコウキャロルの血統では、オフサイドトラップの弟妹たちにも、「オリンピコ」「ワールドカップ」「フラットスリー」といったサッカー用語からとられた馬名が多くつけられている。・・・ちなみに、サッカー界における戦術の変化と発展により、この用語が使われる機会は大きく減り、一部で「死語」と評価されているのは、また別のお話である。
『若き日の野望』
加藤厩舎の3歳馬の中でも期待の1頭とされていたオフサイドトラップは、12月の中山開催でデビューした。もっとも、中館英二騎手とのコンビで臨んだデビュー戦の新馬戦は、2着に敗れてしまった。
そこで、加藤師は、折り返しの新馬戦では、1968年デビューの大ベテランで、父親である加藤朝次郎調教師の弟子であり、また重賞初制覇を喜八郎氏が所有したノボルトウコウ(プレストウコウの兄)で飾るなど、調教師、馬主とも父の代から縁の深い安田富男騎手に依頼することにした。
すると、折り返しの新馬戦こそ2着に敗れたものの、引き続き安田騎手が騎乗した年明けの未勝利戦で初勝利を挙げたオフサイドトラップは、続くセントポーリア賞(500万下特別)でも、後のオークス馬チョウカイキャロルに2馬身半差をつけて快勝した。次走の若葉S(OP)では、大器と噂されるエアダブリンと激突したが、1番人気に応えて優勝し、皐月賞(Gl)への優先出走権も手にした。
皐月賞を前にしたオフサイドトラップは、3連勝で通算成績も5戦3勝、連対率100%とした。これは、皐月賞や日本ダービー(Gl)の有力候補と言われてもおかしくない成績である。
『未完成の春』
しかし、この年のクラシック戦線は、なにぶん相手が悪すぎた。皐月賞、そして日本ダービーで彼を待ち受けていたのは、あのナリタブライアンだったのである。
皐月賞では単勝1330円の5番人気、日本ダービーでは単勝2860円の6番人気と穴馬扱いまではされたオフサイドトラップだったが、結果はそれぞれ7着、8着にとどまった。勝ったナリタブライアンからつけられたタイム差は、それぞれ1秒6と2秒1で、「展開」「勝負のアヤ」「不利を受けた」といった要素以前の決定的な実力差があったと言わざるを得ない。オフサイドトラップは、同期の最強馬が雄飛したそのレースのはるか後方で、ただその栄光を見送ることしかできなかった。
春のクラシックで目立った成績を残すことができなかったオフサイドトラップは、その後、秋以降に備えてラジオたんぱ賞(Glll)に出走したものの、2番人気を裏切る4着に敗れた。本賞金の積み上げすらできなかったのは大きな誤算だったが、既にオープンを含む3勝の実績を持っていたオフサイドトラップは、秋、すなわち菊花賞への出走に向けて、大きなアドバンテージを持っていた。あとは、ステップレースを使いながら、覚醒と飛躍のきっかけを待つ・・・はずのオフサイドトラップに対し、無情にも試練は襲いかかる。