オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~
『諦められない男たち』
オフサイドトラップの脚の状態は、やはり悪かった。1回目の戦線離脱時には戦線復帰まで約5ヶ月を要したが、今回は5ヶ月が経っても、実戦復帰のめどすら立たなかった。毎日温めたり、冷やしたり、レーザーやマイクロ波を照射したりといった、地道で終わりの見えない作業を繰り返す日々がひたすら続いた。
加藤師は、オフサイドトラップの調教を、脚部への負担が少ない坂路だけに切り替えた。また、屈腱炎に効果があると聞いた温泉に連れていったりもした。「患部に馬肉を貼ると熱が取れる」などといった、迷信に限りなく近い民間療法を試したりもした。それでも、オフサイドトラップの症状は良くならない。快方に向かいかけたと思ったら、また腫れが強くなる。
結局、レースに復帰できたのは、バレンタインSから約10ヶ月後となる年末のディセンバーSだった。陣営の人々は、まさか最初の屈腱炎からの復帰戦に選んだこのレースに、1年後にも再度の復帰戦として出走することになるなどとは、夢にも思っていなかっただろう。2度目の復帰戦は約10ヶ月ぶりの出走で、最初の復帰の際のブランクと比較すると、2倍の期間を要していた。
最初の復帰の際には不思議なほど落ちなかったオフサイドトラップの人気だったが、さすがにこの時は単勝1460円の5番人気にとどまった。デビュー2戦目からずっと鞍上を務めていた安田騎手が、この日は加藤和宏騎手に乗り替わっていたことも、不安に拍車をかけた。
これほど苦しい状況の中でも、オフサイドトラップはまだ終わっていなかった。道中に好位を占めた先行馬たちがゴールをめがけてなだれこむ直線で、オフサイドトラップは、後方から彼らを追い詰める末脚を見せ、3着まで持ってきたのである。
そして、オフサイドトラップの戦績は、その後、またしても空白期に突入する。もともとこの時2度目のディセンバーSに出走できたのは、屈腱炎が治ったからではなく、あくまでも症状が安定していたからであり、またこれ以上の状態を望んでも仕方がないからだった。しかし、実戦を走ってみると、結果は残すものの、その帳尻は、確実にその脚を蝕む。再度脚の状態が悪化したことで、オフサイドトラップはまたしても戦線を離脱した。
『終わりなき戦い』
オフサイドトラップがまたしても明日の見えない治療に戻っている間に、同期の三冠馬だったナリタブライアンが現役引退を発表した。4歳時には三冠レースのすべてを、それも3馬身半差、5馬身差、7馬身差とレースごとに着差を広げながら制し、さらには有馬記念(Gl)まで勝って歴史的名馬となったナリタブライアンだったが、5歳時に阪神大賞典(Gll)を楽勝した後は故障に悩まされて苦しい競走生活を送った。6歳時には阪神大賞典こそマヤノトップガンとの事実上のマッチレースを制して復活への期待を集めたものの、天皇賞・春(Gl)ではサクラローレルに屈し、その後物議をかもしたスプリント戦の高松宮杯(Gl)で4着に敗れた後、屈腱炎を発症したのである。
ナリタブライアンは一度の屈腱炎発症によって競走生活の継続を断念したが、既に2度屈腱炎を発症していたオフサイドトラップは、ナリタブライアンの引退後も病魔と闘い続けた。
オフサイドトラップが次に競馬場へと戻って来れたのは、2度目のディセンバーSからさらに11ヶ月後、富士S(OP)でのことだった。
鞍上が加藤騎手から安田騎手に戻ったこの日、オフサイドトラップは単勝960円の4番人気に支持された。そして、この日は半年後に高松宮杯(Gl)を制するシンコウキングが1番人気に応えて優勝したが、中団から4着まで追い上げたオフサイドトラップとのタイム差は、わずかに0秒1だった。
その後、3年連続で出走したディセンバーS(OP)で2着となったオフサイドトラップは、その後、関東のGllないしGlllに4戦出走して2着1回、3着2回、4着1回と善戦を続け、相手との力関係を一新しようと初めての関西圏への遠征を決行した京都の都大路S(OP)でも1番人気ながら3着・・・と、相手のクラスに関係なく上位には来るが勝ちきれない競馬を繰り返した。屈腱炎の再発を恐れて「目いっぱいの仕上げ」ができない中でも、OPや重賞クラスで着を外さず、勝つには至らないまでも、あと一歩のところまでは持ってくる。ちなみに、前記のレースの出走馬たちはいずれもGl未勝利馬だったとはいえ、天皇賞・春(Gl)を目指す有力馬とされていたローゼンカバリー、カネツクロス、キングオブダイヤらや、翌年にフェブラリーS(Gl)を勝つグルメフロンティアらも含んでいた。
「もし脚がまともなら、いい線いってたんじゃないか…」
「何かがかみ合えば、優勝も夢ではない・・・」
と思わせるに十分な戦績を残し続けたオフサイドトラップだが、どうしてもその「何か」がかみ合わなかった。
『三度目の・・・』
エプソムC(Glll)で金杯以来の掲示板外となる6着に敗れた後、オフサイドトラップ陣営を、またしても凶報が直撃した。オフサイドトラップが、3度目となる屈腱炎を発症したのである。
「もうムリだな・・・」
そんな声が上がるのも当然のことである。
しかし、加藤師の思いは、それとは異なっていた。
「仕方ない、放牧に出そう」
加藤師がそう言った時、周囲は驚いた。
「もう1年だけいこうかと思うんだ」
そして、加藤師の無謀とも思えるこの提案を、隆氏は承諾した。
この進言にあたって、加藤師は、隆氏に断られる可能性も想定して、オフサイドトラップを乗馬として引き取ってくれる先も当たっていたという。だが、その心遣いの必要性もなくなった。
オフサイドトラップは、この時点でまだ重賞勝ちこそなかったものの、オープン勝ちや重賞での好走歴が重なり、稼いだ賞金は1億円を優に超えていた。そして何より、渡邊一族にとってのオフサイドトラップは、祖母の代から父子で所有してきた血統である。「よそから買ってきた馬」とは思い入れが違う。賞金をしっかり稼ぎだし、さらに重賞を勝てる可能性を持ちながら、いまだ無冠のまま3度目の屈腱炎を発症した彼に対し、馬主サイドの思いも、どこまでも深かった。
こうしてオフサイドトラップは、またしても療養生活へと突入した。彼が療養している間に、やはり同世代だったサクラローレルも現役を引退していった。凱旋門賞への出走を夢見て渡仏し、前哨戦となるフォワ賞(国際Glll)に出走した際に、屈腱不全断裂を起こしたのである。レース中の事故ということで、オフサイドトラップと同じというわけではないにしても、競走馬にとっての屈腱という箇所の重要性を思い知らせる出来事だった。
八大競走勝ち馬でありながら、旧7歳まで走ったサクラローレルも、一般的な基準で言えば「晩成馬」にほかならない。そんなサクラローレルが引退する時期になってなお、重賞未勝利のまま現役生活の続行に執念を燃やすオフサイドトラップは、もはや日本競馬の常識を超越していた。