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オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~

『不屈』

 オフサイドトラップは、エプソムCから約10ヶ月後、98年3月22日の東風S(OP)で復帰した。

 屈腱炎を発症しながら、復帰すると人気を大きく落とさずに来たオフサイドトラップだったが、この時はさすがにファンも彼のことを軽視していた。いや、忘れていたのかもしれない。10頭立ての7番人気で単勝2720円というのは、人気順ではデビュー以降最低、単勝オッズも東京優駿の次に悪い数字だった。

 しかし、ファンから軽視され、忘れられていても、オフサイドトラップはオフサイドトラップだった。中団から徐々に進出する競馬でしぶとく食らいつき、逃げ切ったケイワンバイキングにこそ2馬身半及ばなかったものの、この状況でも2着に突っ込んできたのである。

 その後の韓国馬事会杯(OP)、新潟大賞典(Glll)と、勝ち馬とは差のない2着が続き、エプソムC(Glll)でも3着だった。気がつくと、この時点でのオフサイドトラップの戦績は、24戦4勝、2着8回、3着5回になっていた。掲示板にすら載れなかったのは、皐月賞、日本ダービー、金杯、97年エプソムCの4戦だけである。善戦はしても、どうしても勝てない。

「何が足りないのか・・・?」

 考えに考えを重ねた加藤師は、ついに大きな決断を下すことになる。

『乗り替わり』

 福島競馬場の七夕賞(Glll)に遠征したオフサイドトラップの鞍上にいたのは、それまでの24戦のうち21戦でコンビを組んだ安田騎手ではなく、蛯名正義騎手だった。加藤師は、

「最後の詰めの甘さをカバーしてもらう」

という観点で、安田騎手から蛯名騎手への乗り替わりを断行したのである。

 蛯名騎手は、前年の97年こそ62勝という「不振」で騎手リーディング12位に「とどまって」いたものの、95年には84勝で7位、96年には82勝で4位と、既に2度10傑入りしていた。そして、この98年は彼にとって飛躍の年となり、6月末時点で既に58勝を挙げ、騎手リーディングでも全国2位、関東では1位の勝利数を挙げ、まぎれもなきトップジョッキーの仲間入りを果たしつつあった。95~97年の3年間で合計68勝、98年は6月末時点で9勝にとどまっていた安田騎手との比較でいえば、明らかな鞍上強化と言える。

 もっとも、蛯名騎手と安田騎手の間には22年というほぼ父子といっていい年齢差があり、蛯名騎手が騎手を目指したきっかけは、7歳の時に父親と一緒に見ていた菊花賞のテレビ中継で、前評判が高かったトウショウボーイとテンポイントを一気に差し切ったグリーングラスの姿に感動したから・・・というものだった。この時グリーングラスに騎乗していたのは安田騎手であり、いわば安田騎手によって騎手を目指したようなものである。若い頃から安田騎手との親交も深かった加藤師ではあったが、オフサイドトラップを勝たせるために、勝負の世界の鉄則ではあっても残酷な選択を取らざるを得なかった。

『悲願成就』

 加藤師からの

「今までちょびちょびやられているから、今回はゴールに間に合うか合わないかギリギリまで我慢するつもりで乗ってくれ」

という指示とともにオフサイドトラップの鞍上を託された蛯名騎手は、自身に期待された「最後の詰め」の末脚を活かすべく、中団から競馬を進めた。道中でかかることもなく、スムーズに競馬を進められたことに手応えを感じる蛯名騎手ではあったが、そのレース展開には、彼を含めた大多数の当事者やファンの想像とは違う要素があった。単勝290円の1番人気ランニングゲイルや同500円の2番人気オフサイドトラップらによる有力馬同士の牽制とは無関係なところにいたタイキフラッシュの存在である。

 この時のタイキフラッシュを見ると、オフサイドトラップと同じ8歳馬だが、戦績的には比べるべくもなく、1年以上にわたって優勝どころか複勝馬券に絡んだこともなかった。それゆえに単勝17570円で16頭立て16番人気という悲惨な人気に甘んじたはずのタイキフラッシュが、この日は予想外の逃げを打つとそのまま単騎逃げに成功していた。

 おそらくはどの騎手からも

「いずれはバテるだろう・・・」

と軽視されていたがゆえの単騎逃げだったかもしれないが、それは完全な見誤りである。直線に入ってからのタイキフラッシュは、自分自身のペースでレースを作ってきた利を活かして二の脚を使い、一瞬、馬群を置き去りにした。・・・人気の盲点となった人気薄によるまさかの大激走にファンが冷や汗をかいたその時、ただ1頭馬群を抜け出し、先頭に迫るその馬が、オフサイドトラップだった。

 他の馬とは異なる脚色で一完歩ごとに先頭との差を詰めたオフサイドトラップは、最後にきっちりとタイキフラッシュをクビ差だけ差し切り、栄光のゴールへと駆け込んだ。蛯名騎手は、加藤師の指示通りに仕掛けを遅らせることによって、オフサイドトラップから、他の馬たちとは次元が異なる末脚を引き出したのである。

 オフサイドトラップのデビューから約4年8ヶ月、屈腱炎との戦いと数々の苦悩を経て、8歳にしてようやくたどり着いたのが、この七夕賞における重賞制覇だった。ちなみに、この日の制覇は、オフサイドトラップのみならず、生産者の村本牧場にとっても初めての重賞制覇となった。・・・加藤師が断行した乗り替わりは、見事なまでに的中したのである。

『連勝』

 七夕賞で見事に結果を出した蛯名騎手は、続く新潟記念(Glll)でもオフサイドトラップの鞍上を務めることになった。

 加藤師から

「うまくやってくれ」

としか言われずに送り出された蛯名騎手は、ここでも後方からの競馬を決め込んだ。しかし、重馬場が響いたのか、それとも初めてとなる58kgの斤量が響いたのか、この日のオフサイドトラップは、道中でかかったり、仕掛けようとしても馬がハミをとろうとしなかったりで、七夕賞の時ほどスムーズな競馬を進めることができなかった。

 それでもゴール手前で3番手までは上がってきたものの、ゴールまでに差し切れるほどの脚色はない・・・ように見えた。そこまでかと思わせたオフサイドトラップだったが、見せ場はその後にやって来た。

 レースの後、蛯名騎手が

「エンジンがかかったのは、残り100m」

と評した通り、オフサイドトラップは、ゴール前でさらにもう一段階加速し、ブラボーグリーンをハナ差だけ差し切ったのである。それまでのオフサイドトラップになかった二段階の末脚は、彼がそれまでとは異なる次元へと足を踏み入れつつある証明だったかもしれない。これまであれほど勝てなかった馬が、夏のローカル戦線とはいえ、重賞2連勝も果たした。

 レースの後、次走について聞かれた加藤師は、この段階では毎日王冠(Gll)への出走をほのめかしている。毎日王冠と言えば、京都大賞典(Gll)、あるいはオールカマー(Gll)とともに、天皇賞・秋(Gl)に向けたステップレースとして位置づけられている。この時点で、オフサイドトラップの秋の目標として、天皇賞・秋(Gl)が視野に入り始めていた。

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