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オフサイドトラップ列伝~1998年11月1日の悲劇~

『さらば、戦場よ』

 天皇賞・秋の後、オフサイドトラップは、パートナーを本来の蛯名騎手に戻して、有馬記念にも出走した。しかし、ここでのオフサイドトラップは、グラスワンダーによる復活勝利のはるか後方で、10着に終わった。

 オフサイドトラップは、通算28戦のうち、デビュー戦の1600m、日本ダービーの2400mと最後の有馬記念を除くと、すべて1800mから2200mの間の距離のレースにしか使われていない。日本ダービーでも掲示板に載れなかったオフサイドトラップにとって、それより長い2500mは、適距離とは言い難かった。

 ただ、有馬記念は出走馬がファン投票によって選ばれるレースであり、時期もJRAの大レースとしては毎年最後に行われる年末の風物詩としてファンに定着していて、注目度も高い。このレースへの出走自体が、長い間屈腱炎と闘いながら競走生活を続け、ついには8歳にして古馬の最高峰を手にしたオフサイドトラップが、ファンに別れを告げるために用意された最後の花道だった。

 オフサイドトラップは、天皇賞・秋を手土産に、引退して種牡馬入りすることになった。天皇賞史上最高齢制覇となる8歳での引退を「早い」という者など、誰もいない。故障に泣かされ続けたオフサイドトラップが、馬の器にふさわしい勲章を得るために、無理を重ねて現役生活を続行してきたことを考えれば、それを得た現在、現役生活を続ける必要もない・・・。

 ただ、オフサイドトラップが生涯に稼いだ賞金は、約4億3500万円を超えている。実は、同馬主のエルコンドルパサーが国内で稼いだ賞金である約3億7600万円よりも多い(エルコンドルパサーの海外での獲得賞金を加えると4億5300万円となり、わずかに逆転するが)。日本競馬を世界に比肩させた名馬とほぼ互角といっていい獲得賞金額は、深刻な脚部不安に悩まされながらも長期にわたって出走を重ね、掲示板を外したのは全部で5回だけという堅実さがもたらした、彼のもう一つの勲章である。

『それからの日々』

 しかし、オフサイドトラップの種牡馬生活は、決して幸せなものにはならなかった。

 天皇賞・秋という金看板を手にしたことによって、確かにオフサイドトラップの進路に「種牡馬」という道は切り拓かれた。トニービン産駒がこの時点で十分な実績を残して、サンデーサイレンス、ブライアンズタイムと並ぶ「種牡馬御三家」を形成し、ウイニングチケットやサクラチトセオーといったGl勝ちのある後継種牡馬も次々と誕生していた。そんな中で、「トニービンの後継種牡馬」たる資格を持つオフサイドトラップの血統に、需要がなかったとは言えない・・・はずだったが、90年代後半、日本の馬産界は大きな転換点を迎えつつあった。

 Northern Dancerといえば、1961年生まれで66年から88年まで23世代にわたって産駒を送り出し、世界の競馬界の血統地図を塗り替えたことで知られる世界的大種牡馬だが、その生涯に送り出した産駒の総数は635頭であると聞けば、現代の感覚からは、その少なさに驚くのではないだろうか。それはNorthern Dancerの特殊事情ではなく、同じ61年生まれで当時の内国産種牡馬としては破格の成績を残したとされるシンザンも66年から87年までで820頭、もう少し時代を下り、73年生まれで78年から92年まで15世代を輩出したトウショウボーイが816頭である。80年代ころの馬産地では、トップクラスの種牡馬が1シーズンに得られる産駒数は、60頭前後と言われていた。

 しかし、90年代前半ころ以降、獣医学の進歩によって1頭の種牡馬が交配できる数が急速に増え始め、90年代後半には200頭前後の数字がスタンダードとなっていった。

 89年に種牡馬として供用が開始されたトニービンの種付け頭数は、その後約4年間は60頭前後にとどまっていたものの、初年度産駒がクラシック戦線を迎えた93年以降に100頭を越えるようになり、96年と97年には150頭を超え、その後も100頭越えが続いている。また、1994年に初年度産駒をデビューさせ、95年のクラシック戦線で猛威を振るったサンデーサイレンスも、95年以前の種付け頭数は5年間で515頭だったが、96年以降は183頭、171頭、185頭とその数が跳ね上がり、99年春には199頭と種付けしている。トップクラスの種牡馬の交配数は、それまでの60頭前後から、この時期に一気に約3倍に増えたのである。

 しかし、トップ級の種牡馬の種付け頭数が3倍になったからといって、日本の競走馬の生産頭数もそれに合わせて3倍になるはずがない。むしろ、長引く不況、地方競馬の衰退、そして外国産馬の台頭によって、日本の競走馬の生産頭数は減少傾向に入っていた。・・・生産頭数全体は減少しているのに、その中のトップ級の種牡馬の供給能力だけが飛躍的に向上した結果、「トップ級ならざる」種牡馬への需要と生存の難易度は、凄まじく上がっていった。

 オフサイドトラップは、供用初年度となる1999年こそ65頭と種付けしたものの、血統登録まで至ったのは34頭と、受胎率はやや低めにとどまった。2000年以降も種付け頭数は42頭、40頭を確保したものの、01年夏に初年度産駒がデビューすると、その流れは一変した。初年度産駒たちのほとんどは地方競馬にしか入厩できず、JRAで勝利を挙げたのは2頭だけだったのである。

 初年度産駒の不振を受けて、オフサイドトラップの種牡馬としての人気は急落し、その後の種付頭数は02年が12頭、03年が5頭となった。他のGl馬と比較しても早い人気の退潮には、勝った天皇賞・秋のタイムの遅さや「サイレンススズカが無事なら勝てなかった」という印象も影響していたという見方は、珍しいものではない。まだ数に恵まれていた2年目、3年目の世代から、JRAの勝ち馬や地方で目を引くほどの大物が現れることはなかった。

 落ちた種牡馬の人気を回復するものは、産駒の活躍しかない。産駒が減ってしまった種牡馬は、その手段すらないというのが競馬界の現実である。

 オフサイドトラップは、2003年を最後に、種牡馬を引退することになった。オフサイドトラップが手に入れられなかった「トニービンの後継種牡馬」の地位は、2001年の日本ダービーとジャパンCを制し、オフサイドトラップと入れ替わるように03年春から種牡馬生活を開始したジャングルポケットへと収斂されていった。それどころか、血統登録された86頭のオフサイドトラップ産駒は、牝馬も含めてただの1頭も繁殖に上がることなく、内国産天皇賞馬の血統は、極めて早い時期に競馬の世界から消えていった。

 その後のオフサイドトラップには、功労馬として繋養されていた観光牧場が2008年に経営が破たんして閉園するという不運まで重なった。ただ、こうした混乱の際に行方不明になる名馬が少なくない中で、オフサイドトラップについては常にその行方について責任ある差配がなされていたようで、その後も別の牧場に引き取られ、穏やかな日々を過ごすことができたことだった。結局、オフサイドトラップが、2011年8月29日に死亡するまでの間、さらなる悲劇の主人公となることはなかったのは、幸いなことである。

『祝福されざる者の悲劇』

 冒頭で指摘した通り、1998年11月1日の天皇賞・秋は、「サイレンススズカが予後不良となったレース」としてファンに記憶されている。そのことを答えたファンに、さらにこのレースを勝った馬を問うた場合、おそらくは少なからず答えることができないのが現実である。

 競馬界では、時々大きなレースで、「祝福されざる勝者」が生まれることがある。オフサイドトラップも、その1頭に数えられる存在であることについて、おそらく異論は少ないだろう。

 ・・・実は、隆氏の父親である喜八郎氏の所有馬で、菊花賞を制しながら天皇賞制覇は果たせなかったプレストウコウも、そうしたサラブレッドに数えられるかもしれない。

 プレストウコウは、伝統のレースである菊花賞を制したものの、それ以前に出走した日本短波賞でマルゼンスキーに7馬身ちぎられた経歴があり、しかもそのマルゼンスキーが当時クラシックへの出走権を持たない持ち込み馬であり、それゆえにクラシックに出走できなかった相手だったがゆえに、

「マルゼンスキーが出走できていれば菊花賞を勝てていなかったのではないか」

という評価に苦しめられなければならなかった。また、そんな彼の最大の栄光となった菊花賞では、今よりずっと東西が遠く、さらに「東高西低」だった時代に、京都競馬場で、関西の人気馬だったトウメイの子テンメイが先頭に立って、

「テンメイ先頭、テンメイ先頭。トウメイが待ってるぞ!」

という名実況を引き出したところで、そのテンメイを差し切って戴冠したのがプレストウコウだった。

 父子とも馬主として有名な渡邊父子だが、その代表的な所有馬が、ともにそんな「間の悪さ」を備えてしまったことは、悲劇と言わざるを得ない。

『悲劇を繰り返さぬように』

 だが、オフサイドトラップというサラブレッドは、渡邊父子の所有馬として代を重ねた牝系から生まれ、多くの関係者の期待を背負って競馬場でデビューした。不運にも屈腱炎を発症したことで引退の危機にさらされたものの、馬主の熱意と厩舎関係者の不屈の思いに支えられて競走生活を続行し、ついにそれらが報われたのが、第118回天皇賞・秋だった。

 歴史が21世紀を迎え、さらには元号も「令和」と改められた現在、我々は問い直してもいいはずである。「あの日」は、本当に日本競馬の悲劇としてのみ語られるべき一日だったのか。長い試練の時を乗り越えて、ついに古馬の最高峰に立った勝者の栄光は、悲劇によって塗り潰す、あるいは悲劇と対となる物語ではなく、それ自身の価値とともに語り継がれるべきではなかったかということに。

 競走馬の競走中止や予後不良という悲劇は、400~550kgという体躯を持つサラブレッドに極限の走りを競わせるという競馬の本質が変わらない限り、おそらくゼロにすることはできないというのが厳しいながらも確かな現実である。しかし、称えられるべきサラブレッドやその関係者たちが、本来受けるべき扱いを受けられないまま風化していくというもうひとつの悲劇は、我々自身の心がけによって、撲滅することができるのではないだろうか。

 第118回天皇賞・秋から長い時間が過ぎ、オフサイドトラップも鬼籍に入って久しい。過去のレースを動画で視聴したり、様々な資料を発掘したりすることは、以前よりずっと容易になった。そうであれば、過去のレース、そして名馬の位置づけを、後世の視線でとらえ直すことも、以前より容易になっているはずである。

 無論、過去の馬の価値を再度とらえ直したとしても、種牡馬や繁殖牝馬として残された産駒が急に増えるはずもないし、血統が断絶していた場合、それをよみがえらせることもできない。しかし、そうだとしても、その時代に十分評価されなかった名馬やその関係者の思いが正当に評価されることによって、救われるものもあるのではないか。オフサイドトラップの馬生を振り返った一競馬ファンとして、せめてそう願わずにはいられない。

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