ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~
『最強古馬への道』
新しく生まれ変わった天皇賞・秋を勝つことは、ミスターシービーに課せられた厳しい試練だったが、それと同時に超えなければならない課題でもあった。三冠馬とは、最強馬と称えられるにふさわしい存在であるからこそ称えられる。勝ち続けることを宿命づけられた三冠馬は、古馬になってからも最強でなければならない。毎日王冠では2着でも喜んでもらえたが、それは毎日王冠があくまでも天皇賞・秋の前哨戦だったからであり、ファンが本番への雄飛につながるとみたからである。一番大切な本番で勝てなければ、それはファンに対する最も重大な裏切りとなる。
そんな雰囲気を表すように、毎日王冠で2番人気の2着となったミスターシービーは、天皇賞・秋で1番人気を奪い返した。それも、単勝170円の断然人気である。勝てば人気になるのは当たり前だが、負けて人気を上げる馬というのは珍しい。天皇賞・秋での圧倒的な1番人気という重責に、ミスターシービー陣営の人々は、
「無様な競馬はできないぞ」
といまさらながらに自分たちの馬に寄せられた期待の重さを思い知らされ、気を引き締めた。
もっとも、人がいくら気を引き締めたからといって、馬もそれを感じて欠点を直す・・・などという都合のよいことは、そうそう起こるものではない。ミスターシービーのスタートも、いくらファンの期待を背負ったところで急によくなるはずもない。古馬の中距離王者決定戦・・・第90回天皇賞・秋でも、ミスターシービーは悲しいまでにミスターシービーのままだった。スタートで勢いがつかなかったミスターシービーの位置取りは、例によって一番後ろからとなった。
『己の道を』
ミスターシービーにとっての出遅れ癖は、もはや業病ともいうべきものであり、いまさら冷や冷やしても仕方がない。しかし、完成したばかりのオーロラビジョンが、馬群の最後方をとことことついていくミスターシービーを映し出した時には、場内はどっと沸いた。
そのころ前方では、隻眼の勇者キョウエイレアがレースを先導し、これにスーパースワロー、カツラギエースといったあたりが続いていた。その中でも特に注目を集めたのは、前走の毎日王冠でミスターシービーを破ったカツラギエースである。前走の殊勲が評価されてミスターシービーに次ぐ2番人気に支持されたカツラギエースの先行力は、この日も不気味な脅威を示していた。
しかし、この日のカツラギエースには、毎日王冠とは違って、ひとつの誤算があった。毎日王冠のときは折り合いがついての逃げを打つことができたのだが、この日は前に2頭の馬を置いたことから、先頭を走りたいカツラギエースがかかってしまったのである。しかも、府中の大観衆の歓声も災いし、カツラギエースはすっかり興奮し、平常心を失ってしまった。
カツラギエースの変調を察した松山師は、ひそかにうなずいた。この日彼が最も警戒していたのは、間違いなくカツラギエースだった。ミスターシービー不在の春競馬で宝塚記念(Gl)を勝つなど、5歳世代の大将格として中距離戦線をリードし、毎日王冠では復帰したミスターシービーの末脚を封じ込めたカツラギエース。それは、三冠馬にとっても不気味な存在感を感じずにはいられない相手だった。そんな相手が大舞台の緊張感に耐え切れず、自滅しようとしている。これならば、相手の動きに左右されず、自分の競馬をすれば勝てるはずである。
吉永騎手も、最後方でレースの流れを俯瞰しながら、仕掛けどころを探っていた。ミスターシービーの豪脚をどこから開放するか。彼らが再現すべきは、彼らのための戦場でより輝くであろう、彼ら自身の競馬以外の何ものでもなかった。
『府中の千両役者』
吉永騎手とミスターシービーが動いたのは、第3コーナー付近でのことだった。いよいよ勝負どころを迎え、三冠馬の進出を期待してスタンドから上がり始めた喚声は、主役がそれに違わず進出を開始したことで、火がついたような大歓声となって直線を飲み込んだ。大歓声の下で、最後方から馬群に突っ込み、馬の壁の間を縫って進出していくその姿は、まさに府中の千両役者だった。観客で埋め尽くされた府中競馬場のスタンドは、主役が作ろうとしている大きな見せ場に熱狂し、ファンの歓呼の声がこだました。
いったん仕掛けると他の馬が止まっているかのように見えたダービーとは違い、さすがに相手は古馬になるまで一線級で戦い抜いてきた猛者どもであり、この日、直線入り口ではミスターシービーはまだ馬群の中にいた。しかし、直線に入ってからの脚色はまったく違っていた。その脚色のとおり、ミスターシービーはやがて馬群から抜け出し、前を行く馬たちに一気に襲いかかる。
ミスターシービー不在の中距離戦線を支配し、前哨戦の毎日王冠ではミスターシービーを破ったカツラギエース、南関東三冠馬サンオーイ、そしてカツラギエースを高松宮杯で破った隻眼の勇者キョウエイレアといったライバルたちも盾の栄冠を目指してはいたが、ミスターシービーの末脚が炸裂すると、彼らにはもう抵抗するだけの余力は残っていなかった。カツラギエースを初めとする先行勢が沈んでいく中、ミスターシービーはみるみる前との間を縮めていった。