ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~
『四冠達成』
ミスターシービーは、ついに先行勢を捉えることに成功した。そんな彼に対し、後方からテュデナムキング、ロンググレイスといったところが乾坤一擲の末脚勝負で追撃してくるものの、長く広い府中の直線で充分に勢いをつけたミスターシービーに届くはずがない。そして、大歓声の中でミスターシービーは、テュデナムキングに半馬身差を付けたままゴールした。着差は大きくないものの、内容的には完勝といってよいものだった。
この時の勝ちタイムである1分59秒3は、記念すべき初めての2000mの天皇賞にふさわしく、東京2000mのコースレコードだった。毎日王冠では衰えぬ豪脚でファンを沸かせたミスターシービーが、今度は完全なる勝利という結果をもって、完全復活を宣言したのである。
凄まじい歓呼の声に対しても、吉永騎手はあくまでも冷静だった。レースの後のコメントも
「シービーの力を信用して乗りました。この馬の力を発揮できれば、勝てると思っていますから。四冠?すべては馬のおかげです…」
というものだった。天皇賞・秋は終わり、ミスターシービーの栄光に、新たな勲章がひとつ加わった。だが、勝利の余韻にいつまでも浸っている暇はない。戦場に生きる彼らはもちろんのこと、ファン、そして競馬界の目も、早くもミスターシービーの次なる戦いへと向けられていた。
「シービー、ジャパンCでも頼むぞ!」
「吉永、府中に日の丸を掲げてくれよ!」
そんな声が吉永騎手に投げかけられた。次に彼らが背負うもの、それは日本競馬界すべての悲願であり、渇望であった。
『世界へと続く道』
ジャパンC、それは日本の競馬界における最高のコース・・・日本ダービーと同じ東京競馬場の芝2400mコースに世界の強豪たちを招待して行われる国際レースである。「世界に通用する馬づくり」を掲げて創設されたジャパンCは、日本競馬における最強馬たちが、日本競馬の最高峰とも言うべき舞台に、北米、欧州という競馬先進国からの招待馬たちを迎えて戦うレースである。当時の日本競馬の中で唯一「世界」へとつながるレース・・・それがジャパンCだった。
しかし、ジャパンCでの日本馬たちの挑戦の歴史は、同時に日本馬たちの敗北の歴史でもある。ホウヨウボーイ、モンテプリンス、キョウエイプロミス、アンバーシャダイ・・・多くの日本の名馬たちがジャパンC、すなわち世界の壁に挑んでは、無残なまでに退けられてきた。
「府中に日の丸を!」
この標語は、ジャパンC創設以降、日本競馬の悲願となっていた。日本競馬の世界への憧れを一身に集めるこのレースは、日本競馬にとって、特別なレースにほかならなかった。
この年のジャパンCへの外国招待馬たちは、例年以上の水準となることが予想されていた。しかし、三冠に加えて古馬の最高峰の勲章たる天皇賞の盾をも手にしたミスターシービーは、文字どおりの「日本の総大将」としてジャパンCに、そして世界に立ち向かうことを宿命づけられていた。前年は菊花賞からの強行軍を嫌って回避したジャパンCだったが、今度こそは万全の状態で迎えることができるだろう。
クラシック三冠に加えて天皇賞・秋をも勝ったミスターシービーに対する評価は、単なる「現役最強」を超えた「歴史的名馬」の領域に入っている。世界への夢を掲げてジャパンCを創設したものの、過去の3回はいずれも時代のエース級の馬たちを送り込んでは負け続け、世界との差ばかりを痛感させられるだけに終わった日本競馬にとって、これはむしろ絶好機であった。敵が強ければこそ、迎え撃つ日本馬もそれだけ強力な存在でなければならない。しかし、四冠馬ミスターシービーであれば、過去に送り込んだどの馬よりも偉大な存在として申し分もない。
ミスターシービーと吉永騎手の双肩には、日本競馬の夢が重く託されることになった。日本ダービー、毎日王冠、そして天皇賞・秋・・・と続いてきたミスターシービーの府中伝説は、日本競馬全体の目標となっていたジャパンCで最も美しく輝くだろう。いや、輝かなければならない!
日本ダービー、そして天皇賞・秋と同じように末脚を爆発させたミスターシービーが、強い強い外国馬たちをなぎ倒す夢に胸を躍らせる。そんな光景を夢想するファンの大声援によって、天皇賞・秋(Gl)は幕を閉じた。数分前まで熱い戦いに燃え上がった府中の杜は、勝者を称えるとともに、1ヶ月後に再び帰ってくるであろう彼に対する勝利の「前祝い」ともいうべき興奮と喧騒に包まれていた。
『かき消された不安』
しかし、競馬界全体がミスターシービーの四冠達成に酔い、日本馬によるジャパンC初制覇の期待に熱く燃え上がる一方で、ミスターシービー陣営の人々の間には、言い知れぬ不安が広がっていた。
ミスターシービーの主戦騎手である吉永騎手は、天皇賞・秋のレース中、第3コーナーで上がっていき始めたときに「おや」と思ったという。
「手応えがいつもとちょっと違うな、と思ったんです」
その後ミスターシービーは、4歳時と変わらない行き脚で見事天皇賞・秋を制覇した。そのため吉永騎手は、第3コーナーでの感覚を「思い過ごしだったんだろう」と思うことにした。しかし、ミスターシービーを誰よりもよく知っているはずの彼にも、
「あれはいったい何だったのだろうか」
という疑問を完全に拭い去ることはできなかった得体の知れない不安感は、彼の心にぽつんと影を落とした。
さらに、ミスターシービーを管理する松山師の不安は、吉永騎手より深刻なものだった。松山師は、もともとミスターシービーの後方一気の脚質に対して、前々から言い知れぬ不安感を感じ、可能なことなら、何とかもう少し好位置に付けて、安定した戦法が取れるようにしたい、と願っていた。
菊花賞の後のことだが、松山師はミスターシービーについて、
「ミスターシービーが理想的に競馬を進めたとしても、時代を代表する実力を持ち、かつ長距離が得意な馬とぶつかったとしたら、圧勝するどころか、逆に10馬身以上離されて負けてしまうでしょう」
と語っている。この計算を覆すには、ミスターシービー自身の地力を強化するだけでは足りない。「後方一気」の競馬を続ける限り、いつかは突き当たらなければならない壁がある・・・。それが松山師の変わりなき考えだった。そのため、毎日王冠、天皇賞・秋と続いた5歳の秋の戦いは、松山師の不安を打ち消すのではなく、むしろ強めるものだった。古馬になって気性的に成長しているかと思いきや、それもない・・・。
松山師の見立てでは、ミスターシービーは中距離馬だった。三冠レースでは皐月賞よりもダービー、ダービーよりも菊花賞、とレースのたびに着差を広げていったものの、それは展開のアヤであり、また同世代にたまたまミスターシービー以上に長距離適性がある馬がいなかったからに過ぎない。相手が異世代、あるいは世界の強敵となれば、話はまったく異なってくるだろう。
しかし、ミスターシービーの場合、彼自身の致命的なスタート下手と不器用さゆえに、松山師の望む競馬は難しい。さらに、同時代の騎手である中島啓之騎手は、ミスターシービーについてこう評している。
「ミスターシービーは本来スプリンター。長い距離を持たせるためには、あの乗り方(後方一気)しかない」
ミスターシービーにとっての最善の騎乗とは何なのか。それは、プロの間ですら意見が分かれるところである。そして、不幸なことに、といっていいのかどうか分からないが、ミスターシービーは松山騎手が危惧する後方一気の競馬のままで、結果を出し続けていた。何よりも、その破天荒さこそが「時の馬」となったミスターシービーの人気の源泉でもあった。
三冠馬、稀代のスターホースとなったミスターシービーは、もはや千明牧場や松山師の馬ではなく、ファンの馬となっていた。彼らは、ミスターシービーが壁に突き当たることもないままの方向転換を望んでいなかった。否、許そうとすらしていなかった。ミスターシービーにとって、後方一気の競馬を捨てることとは、栄光の象徴と人気の源泉を捨てることであり、またミスターシービーであることすら捨て去ることだった。そんなことは、できるはずがない。
「このままでは、いつか現れる本当の名馬との戦いには勝てない…」
松山師のそんな思いは、嵐のようなミスターシービー賛歌の前にかき消されていった。だが、実際には、四冠馬となったミスターシービーの背後に、松山師の不安を現実のものとする、ある蹄音がもう迫りつつあった。ミスターシービー以上の王道を往く、もう1頭の三冠馬、そして新時代の蹄音。その蹄音は、1歳下の三冠馬シンボリルドルフによるものだった。