ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~
第4章:「運命の分岐」
『絶対皇帝』
ミスターシービーが東京で天皇賞・秋(Gl)を制した翌週、京都競馬場で菊花賞(Gl)が開催され、ミスターシービーに続く史上4頭目の新しい三冠馬が誕生した。その三冠馬とは、「絶対皇帝」ことシンボリルドルフである。
シンボリルドルフは、この日まで皐月賞、ダービーはもちろんのこと、そのステップレースも含めた三冠ロードを無敗で突き進んできた。そして、三冠の最後の関門となった菊花賞も、まったく危なげのない競馬で2着ゴールドウェイ以下を完封したシンボリルドルフは、見事に偉業を達成した。ミスターシービーは三冠達成までに2度の取りこぼしがあったが、シンボリルドルフは3歳戦も含めて無敗の8連勝で三冠馬となり、史上初の「不敗の三冠馬」となったのである。
しかし、シンボリルドルフが「不敗の三冠馬」となった瞬間に京都競馬場のスタンドを支配したのは、前年の狂気じみた熱狂、興奮とはほど遠い、不気味なまでの静けさだったという。その不気味な静けさの原因には、前年にミスターシービーが三冠を達成していたことから、物珍しさという点では19年ぶりだったミスターシービーほどではなかった、ということもあったかもしれない。しかし、その最大の理由は、三冠の主人公となったシンボリルドルフの、ミスターシービーとはあまりに違った個性、戦いぶりにあった。
ミスターシービーにとって、菊花賞とは、破天荒なレースでファンを驚かせ、悲しませ、そして歓喜させてきた自らの三冠ドラマの終幕だった。そこに至るまでに幾度も危機に陥り、陣営の人々はもちろんファンも含めて、何重もの絶望を誘ってきた。だが、ミスターシービーはそんな危機、絶望の淵から蘇ってついには三冠を達成したものであり、その壮大さにおいても、劇的さにおいても、菊花賞は「筋書きのない大河ドラマの完結編」だった。
ところが、もう1頭の三冠馬にとって、そうした意外性とか劇的さとかは、まったく無縁のものだった。スタートしてすぐに好位につけ、第3コーナーから第4コーナーのあたりで徐々に前方に進出すると、ゴール前で図ったようにきっちりと前方の馬を差し切り、後方の馬を寄せ付けずに勝つ。そんなシンボリルドルフの競馬に、「出遅れ」「不利」「最後方」「まくり」といったミスターシービーのキーワードとなるような単語は、まったく存在しない。
シンボリルドルフの場合、すべての勝利は「必然」だった。大衆を熱狂させるドラマなど、この馬には必要ない。必要なのはただひとつ、勝利というただひとつの目標に至るまでの、計算しつくされた過程のみである。そして、シンボリルドルフはその過程を忠実に歩み続け、勝ち続けてきた。シンボリルドルフにとっては、無敗の三冠達成さえも、あらかじめ計算された戦いを忠実に実行した結果としての当然の成果に過ぎない。彼の関係者、そしてファンにとってすら、この日は当然に実現すべき「未来の歴史」の通過点に過ぎなかった。
『偉大なる常識』
シンボリルドルフは、日本を代表するオーナーブリーダーであるシンボリ牧場の当時の総帥であり、「馬産の芸術家」とも謳われた和田共弘氏が、その生涯で送り出した最高傑作である。和田氏が擁する大種牡馬パーソロンの子であり、生まれてすぐにシンボリ牧場の充実した設備の中で英才教育を受けてきたシンボリルドルフは、騎手時代に「ミスター競馬」と呼ばれた野平祐二調教師のもとに入厩し、岡部幸雄騎手を鞍上として迎えた。
そんな彼が徹底的に教え込まれてきたのは、いかに少ないリスクで効率よく勝つか、というノウハウであり、シンボリルドルフも彼らのノウハウを忠実に学ぶどころか、時には教師たち以上のものを見事に実践してみせた。日本ダービー(Gl)においては、岡部騎手がゴーサインを出したものの、馬がまったく反応しなかったため、岡部騎手や和田氏を慌てさせたものの、その後自ら勝負どころと判断すると、岡部騎手の指示に関係なく自分で動き、ゴール前できっちりと差し切っている。このレースの後、岡部騎手は
「あのゴーサインは早すぎた。ルドルフに勝ち方を教えてもらったね。ああいう競馬を教えたのは自分たちだったのに…」
と反省の苦笑いをもらすほどだった。
そんな不敗の三冠馬の関係者たちは、秋の大目標は菊花賞ではなく、ジャパンCであると広言していた。当時の番組では、菊花賞からジャパンCに進むと、中1週の厳しいローテーションになってしまう。現に、前年の三冠馬ミスターシービーは、菊花賞で三冠を達成した後、ジャパンCを回避して休養に入っている。シンボリルドルフ陣営は、ミスターシービー陣営とは違って、三冠にはこだわらず、菊花賞を回避する意向を示していた。
「同世代の馬たちとは完全に勝負付けが終わっている。ならば菊花賞でもう一度同じ相手と戦うよりも、世界の強い馬たちを相手に戦いたい」
このような発言は、普通ならば関係者の驕りを示すものとして顰蹙を買いかねない。しかし、シンボリルドルフの場合、それはまったく驕りではなかった。シンボリルドルフのそれまでの勝ち方は、あまりにも危なげがなく、あまりにも見事なものばかりだったからである。世間は、菊花賞回避という選択さえも「逃げ」とは受け取らなかった。否、受け取れなかった。シンボリルドルフが同世代の馬に負ける姿など、まったく想像し得ないものだった。
結局シンボリルドルフは、
「やはり三冠も獲ってほしい」
というファンの大多数の声にも後押しされたか、和田氏が菊花賞とジャパンCの両方に出走することを決断し、菊花賞で当然のように勝った。そのような軌跡を歩んで三冠馬となったシンボリルドルフの戦いは、まさに「偉大なる常識」という言葉がぴったりと当てはまり、ミスターシービーとはあらゆる意味で対極にある存在だった。
『三冠馬対三冠馬』
シンボリルドルフの三冠達成にあって競馬サークルの話題を独占したのは、シンボリルドルフの三冠達成そのものではなく、その後のこと、つまりミスターシービーとの三冠馬対決の話題だった。ミスターシービー陣営は、前年は厳しいローテーションを嫌って回避したジャパンCを、今年こそは勝ちにいくと表明していた。菊花賞への出走によって出否が注目されたシンボリルドルフも、菊花賞後は予定通りジャパンCへ進むことを言明した。ここに2頭の三冠馬は、いずれもジャパンCへと進むこととなり、「三冠馬対三冠馬」という夢の対決が実現することになったのである。
2頭の中央競馬の三冠馬による直接対決。そんな歴史は、日本競馬の長い歴史においても、この時以外には存在しない。それはそうだろう。1983年の三冠馬ミスターシービーの前に三冠を達成したのは、1964年のシンザンである。シンザンの前の三冠馬となると、1943年のセントライトまでさかのぼらなければならない。つまり、当時のファンにとって、日本の「三冠馬」とは、ほぼ20年周期でしか誕生しない、稀有な存在だった。ミスターシービーが三冠を達成した時も、大多数のファンも
「次の三冠馬が現れるのも、20年くらい後だろう…」
と考えたはずである。まさかその翌年にも三冠馬が誕生し、2頭の三冠馬による並立時代を迎えるなどということを、誰が予想しただろうか。
日本競馬史上空前にして絶後の三冠馬、それも、タイプが異なるどころかあらゆる意味で対照的な2頭による夢の対決は、ファンの魂を揺さぶった。果たしてこの2頭はどんな戦いを繰り広げるのか。天皇賞・秋、菊花賞の少し前の時期ではあるが、月刊誌「優駿」がファンから集めたアンケートの結果は象徴的である。
「ミスターシービーとシンボリルドルフはどちらが好きか」
という問いについてはほぼ2対1の比率でミスターシービーが優勢だったが、この問いが
「実際に対決した場合、どちらが勝つと思うか」
となると、今度は2対1でシンボリルドルフが優勢となったのである。このような2頭を並べたアンケートがされること自体、シンボリルドルフが三冠達成以前から三冠級の評価がなされていたことの証明だが、ここで出てきた結果は、2頭の三冠馬に対する当時のファンの見方を代表するものであるとともに、2頭の歴史的名馬の狭間で揺れ動くファンの微妙な心を見事に表していた。