ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~
『栄光を継ぐ者』
大作氏が久氏から千明牧場の実権を受け継いだころ、千明牧場では牧場の基礎を築いた場長が引退したという事情も重なり、活躍馬が途絶えていた。しかし、大作氏も祖父、父に負けず劣らずの馬好きであり、種牡馬辞典を見ては自分の牧場の繁殖牝馬との配合を研究することを趣味とするほどだった。彼は若いスタッフと一緒に新しい千明牧場の歴史と伝統を築くべく、日夜努力を重ねた。
そんな苦労の甲斐あって、やがて大作氏が自ら配合を考えた馬から、1頭の名牝が現れた。新生千明牧場の基礎牝馬となったチルウインドの孫に当たるメイドウに、凱旋門賞馬トピオをかけて生まれたシービークインである。
シービークインが生まれた当時、種牡馬としてのトピオの評判は低く、一般の馬産家からは既に忘れられた存在となっていた。しかし、大作氏はなぜかこのトピオの血にこだわり、そう多くもない牧場の繁殖牝馬のうち毎年1頭は必ずこの馬と交配していた。そうして生まれたのがシービークインだった。
やがて関東の名門松山吉三郎厩舎から競走馬としてデビューしたシービークインは、14番人気の人気薄から4歳牝馬特別を逃げ切り、不良馬場のオークスでも3着に粘った。また、古馬になってからの毎日王冠でもやはり鮮烈な逃げを見せ、直線の長い東京コースで追い込み馬たちの猛追をしのぎきっただけでなく、レコードタイムまで記録した。6歳まで走って京王杯スプリングハンデも勝ち、通算成績を22戦5勝としたシービークインは、期待の繁殖牝馬として千明牧場に帰ってくることになった。
前に書いたとおり、大作氏は血統の研究が大好きだった。そんな彼が、自分が作り出した傑作シービークインの配合を人任せにすることなどあろうはずがない。繁殖に上がったばかりのシービークインにどの種牡馬をつけるのか。それを考えていた大作氏の脳裏に、自分が目の当たりにしたあるレース・・・シービークインがデビューした新馬戦の光景がよみがえってきた。
『始まりの風景』
それは、1976年1月31日のことだった。この日、新馬戦に出走することになっていたシービークインを応援するため、東京競馬場に行った大作氏は、シービークインが出走するレースの出走馬の中に、1頭とてつもなく素晴らしい馬がいることに気が付いた。千明牧場と同じオーナーブリーダーである藤正牧場が送り込む期待馬と噂されていたその馬は、他の馬にはないスピード感や気品を漂わせ、いかにも走りそうな雰囲気を全身からかもし出していた。
「この馬には勝てそうにないな…」
そう思っていたところ、案の定シービークインは、果敢に逃げたものの最後に失速し、その馬をはじめとする4頭に交わされて5着に敗れてしまった。大作氏が魅入られたその馬は、2着馬に3馬身、シービークインには10馬身以上の差を付けて悠々と先頭でゴールした。そのあまりのスピードに、大作氏は負けて悔しがるより先に
「この馬はきっと種馬になる。いつか種馬になったら、きっとシービークインと配合してやろう」
などと考えたという。
その馬は、やがて大作氏の見立て通りに大変な名馬になった。その気品とスピードあふれた走りから「天馬」と称されたその馬は、皐月賞、有馬記念、宝塚記念を勝ったのをはじめ通算15戦10勝の戦績を残し、宿命のライバルテンポイント、グリーングラスとともに「TTG時代」と呼ばれる一時代を築いたトウショウボーイであった。
シービークインの交配相手を考えるに当たって、新馬戦で見たトウショウボーイの雄姿を思い出した大作氏は
「この2頭を交配すれば、どんなにスピードあふれる逃げ馬ができるだろう」
と夢を膨らませた。シービークインの現役時代は軽快な逃げでファンを魅了したし、トウショウボーイも脚質的には好位置に付けての先行抜け出しを勝ちパターンとしていた。また、シービークインはオークス3着の実績があるし、トウショウボーイも有馬記念を勝っていることからすれば、距離もそれなりに持つだろうと思われた。大作氏は、この2頭の子供で、両親から抜群の先行力を受け継いだ、クラシックでも楽しめるような馬を作ろうと考え、トウショウボーイとの交配を決意した。
『汝、罪のうちより生まれ出で』
もっとも、シービークインとトウショウボーイの交配が、大作氏の思い通りにすんなり実現したわけではなかった。トウショウボーイを供用していた日高軽種馬農協は、規則によってその所有種牡馬の交配相手につき、所有者が組合員である繁殖牝馬に限定していた。もっとも、当時の千明牧場では、種付けシーズンになると繁殖牝馬を北海道の牧場に預け、種付けの申し込みから実際の種付けまでを委託していた。種牡馬への交配の申し込みもたいてい北海道の牧場に任せていたため、委託相手の牧場が農協の組合員ならば、当然に認められるだろう、という程度の認識しかなかったのである。
実際には、農協の規則では、委託先ではなく繁殖牝馬の所有者として登録された者・・・この場合千明牧場が日高軽種馬農協の組合員でなければ、トウショウボーイとの交配を申し込む資格はなかった。群馬にあるため、日高軽種馬農協の組合員ではなかった千明牧場の所有馬であるシービークインは、本来トウショウボーイと交配されるはずのない馬だった。
シービークインとミスターシービー・・・本来あり得ない交配が実現してした背景には、皮肉にも、当時の馬産界の内国産種牡馬軽視の風潮があった。
現役時代に輝かしい競走成績を残したトウショウボーイは、シービークインより1年早く5歳限りで引退した後、当時の内国産馬としては破格の2億5000万円という高い価格で日高軽種馬農協に購入され、当時は種牡馬としての供用2年目を迎えていた。
種牡馬としてのトウショウボーイは、もともと血統的には日高軽種馬農協の看板種牡馬テスコボーイの代表産駒というにとどまらず、母系も含めて当時の内国産馬のトップクラスと評価されており、現役時代の成績も文句のつけようがないものだった。また、実際にトウショウボーイは、後に種牡馬として大成功を収めている。それゆえに、後世の人々は、トウショウボーイが種牡馬入りした時から馬産地の期待を一身に集めていたものと誤解しがちである。しかし、当時の馬産界の雰囲気は、必ずしもそのように暖かいものではなかった。当時の馬産界における内国産種牡馬蔑視の風潮は、現在の我々には想像もつかないほどに強くて深いものであり、トウショウボーイほどの名馬であっても例外ではなかった。
『天馬の血』
トウショウボーイが将来日高の馬産を支える種牡馬になる、と考えた日高軽種馬農協の幹部は、トウショウボーイを導入する際、生産者であり馬主でもあった藤正牧場に対し、代金2億5000万円を提示した。藤正牧場の返答は、提示価格に加え、オプションとしてトウショウボーイの1年間3頭分の永久種付け権と、テスコボーイの種付け権3年分をつけてくれれば、日高軽種馬農協に売るというものだった。
トウショウボーイ自身の永久種付け権についてはさほどの困難ではなかったが、問題はテスコボーイの種付け権だった。テスコボーイは、当時の日高軽種馬農協の看板種牡馬であり、通常ならば高倍率の抽選をくぐり抜けなければ交配することすらできなかった。そして、普通の組合員にとっては、テスコボーイの種付け権を毎年申し込んだとしても、5年に1度、下手をすれば10年に1度しか当たらない、それほどの人気種牡馬だったのである。
日高軽種馬農協の幹部は、テスコボーイの代表産駒であるトウショウボーイに対し、テスコボーイの後継種牡馬となることも期待して、藤正牧場の申し出を受け入れることにした。ところが、意気揚々と帰った彼らを待っていたのは、会員たちの
「どうしてそんな法外な条件を呑んだんだ」
という不平不満と厳しい責任追及の声だった。
当時の馬産界の感覚からいえば、内国産種牡馬は内国産であるというその一点だけで成功するはずがないものだった。ところが、軽種馬農協の幹部たちは、成功するはずがない内国産種牡馬を高値で導入してしまうどころか、貴重なテスコボーイの種付け権まで藤正牧場に渡してしまった。藤正牧場に渡った種付け権の分、一般の組合員の枠は減ってしまうではないか…。一般の馬産家たちの種牡馬トウショウボーイに対する評価は、しょせんその程度のものだった。
種付け料が80万円に設定されて供用されたトウショウボーイだったが、初年度の種付け申込みは、70頭の交配予定頭数に対して96頭しか集まらなかった。いちおう定数こそ超えているものの、「人気種牡馬」というには心もとない数字である。普通、トップクラスの種牡馬の供用初年度は、現役時代の栄光の印象が強烈に残っているため、過剰な人気が集まることが多い。ましてトウショウボーイの場合、種牡馬としての評価が定まった後には、毎年交配予定頭数の10倍近い申込みがあった。そのことを思えば、これはむしろ驚くほどの少ない数字ということができる。しかも、ようやく集まった繁殖牝馬たちは、高齢の馬であったり、また血統背景も実績もない馬であったりで、質という点ではかなり低いものだった。
そんな状況のもとで、トウショウボーイの初年度の産駒たちに対する評価も芳しいものではなかった。受胎率自体がせいぜい60%と低かったうえ、翌年春に実際に生まれた産駒たちには、牡馬に比べて安くしか売れない牝馬が多かった。また、父の欠点だった腰の甘さをもろに受け継いでしまった子も多かった。
「こんな子供たちが走るもんか!?」
そんな悲鳴にも似た嘆きの声が、トウショウボーイの初年度の交配を申し込んだ牧場のあちこちで起こっていたくらいだから、種牡馬トウショウボーイの評価は上がろうはずもない。トウショウボーイの2年目の供用も、種付け申込みは105頭にとどまり、繁殖牝馬の質も初年度と似たり寄ったりのものだった。トウショウボーイをなんとか成功させてやりたい、と願っていた種馬場の場長の悩みと悲しみも、深まるばかりだった。