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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

第5章:「すべてを捨てても」

『時代の変わり目』

 グレード制導入をきっかけに近代競馬の幕開けを告げ、王者ミスターシービー不在の中で激動とともに始まった1984年の中央競馬は、皇帝シンボリルドルフによる有馬記念制覇によって幕を下ろした。ミスターシービー、カツラギエースら上の世代を代表する名馬たちが揃った有馬記念で、この年のクラシック戦線を勝ち抜いたシンボリルドルフが横綱競馬で制したという事実は、日本競馬界が彼の絶対王朝のもとに統一されたことを意味していた。

 こうして時代が移りゆく中、84年秋の日本競馬をリードした1頭であるカツラギエースは、有馬記念を最後に現役を引退していった。カツラギエースの引退が決定したことを聞いた西浦勝一騎手は、

「6歳になったらもっと強くなるのに。なんて夢のない話だ」

と悲しんだというが、ジャパンC(Gl)、宝塚記念(Gl)を制したことで、種牡馬としての勲章は十分だった。もっとも、ジャパンCで破ったシンボリルドルフには、有馬記念で借りを返されたものの、カツラギエース陣営からはレース後

「あんな凄い馬に一度は勝って、もう一度も2着になれたんやから、それで十分や」

という声があがっていた。カツラギエースは、シンボリルドルフを不世出の名馬と認めたがゆえに、彼による絶対王朝を承認し、潔く退場していく形を選んだのである。競走馬として燃え尽きる前にこのような形で引退する、という選択については、ひとつの選択として尊重されるべきだろう。

 しかし、カツラギエースのように、シンボリルドルフの絶対王朝を素直に認めることができない馬もいた。それが、1983年の三冠馬ミスターシービーだった。

 ミスターシービーは、1985年に入り、6歳となった。同期のカツラギエースが5歳いっぱいで引退したように、彼が引退したとしても、なんら不思議のない年齢になっていた。カツラギエースの勲章を十分というならば、クラシック三冠と天皇賞・秋を制したミスターシービーの勲章は、十分以上というべきである。純粋に損得を考えれば、このまま引退した方がむしろ賢明だったかもしれない。だが、ミスターシービーは引退ではなく、現役続行の道を選んだ。その目的はただひとつ、1歳下の三冠馬シンボリルドルフに雪辱し、傷つけられた誇りを取り戻すことだった。

『ただひとつの勝利を』

 ミスターシービーは、三冠と天皇賞・秋を制したことで、一度は競馬界の頂点に君臨した馬である。そんな彼がジャパンC以降に味わったのは、同世代だったカツラギエースと1歳下のシンボリルドルフによる頂点からの失陥だった。一度頂点を味わったがゆえの、頂点から追われることの屈辱。これは、本当の意味で競馬界の頂点に立ったことがないカツラギエース陣営には、そもそも共有し得ない感情だった。

 空前絶後の名馬となるはずだったミスターシービーの地位は、このままではシンボリルドルフに及ばない存在として、永遠に固定されてしまう。敗北によって傷ついた誇りを贖うためには、勝利をもってするしかない。彼にその屈辱を味わわせた2頭のうち、カツラギエースについては引退したことにより、雪辱の機会は失われてしまったが、競馬界にはもう1頭の敵が残っていた。・・・シンボリルドルフは、ミスターシービーにしてみれば、「三冠馬対決」と注目を集め、最も対照的な存在として比較されながら、2度の対決では影を踏むことすらできなかった敵であり、またもう1頭の宿敵カツラギエースが、決してかないえぬ相手として自ら道を譲った相手でもある。ならば、ミスターシービーとしては、このシンボリルドルフに勝ちさえすれば、カツラギエースに対するものも含め、失われた誇りはすべて取り戻すことが出来る。彼らが望んだもの、それは賞金でもなければ名誉でもない。ただひとつ、最強最大の敵に対して一矢を報い、三冠馬の傷ついた誇りを取り戻すことだけだった。

 6歳になったミスターシービーは、産経大阪杯(Gll)から天皇賞・春(Gl)を目指すことになった。始動戦として産経大阪杯を選んだ理由は、このレースがミスターシービーの最も得意な距離とされる2000mで行われるということもあったが、シンボリルドルフが日経賞(Gll)から始動するということも関係していた。彼らが倒すべき相手はあくまでもシンボリルドルフだったが、彼らはシンボリルドルフという馬の強さも、誰よりもよく知っていた。ミスターシービーの状態を最高のものとしなければ、そもそも戦える相手ですらない。そして、もし勝ちうるとしても、そうそう何度も勝てる相手でもない。

 松山師、吉永騎手らは、まず前哨戦で久しく勝利の味を忘れているミスターシービーに勝利の感覚を取り戻させ、その後シンボリルドルフとの決着をGlでつけることを望んだ。ミスターシービーが産経大阪杯に出走した目的は、シンボリルドルフが出走せず、相手も格下の馬ばかりだったからだった。まずはこのレースで1勝をあげることで、天皇賞・春までに立ち直りのきっかけをつかむことだけが狙いだった。

『堕ちた偶像』

 しかし、必勝を期したはずのミスターシービー陣営の選択は、完全に裏目に出てしまった。予定どおり産経大阪杯に出走したミスターシービーは、直線に入ってからは全盛期を取り戻したかのような末脚を見せてファンを沸かせたものの、ゴールを前にしてその脚が完全に止まってしまったのである。その時ミスターシービーの前には、まだ差していない最後の1頭・ステートジャガーが残っていたが、これをかわすのに手まどり、もがいているうちに、ステートジャガーに差し返されてしまった。ミスターシービー対ステートジャガー。格の上ではあまりに違いすぎたこの2頭の叩きあいは、実績的にははるかに格下だったステートジャガーがハナ差残ったままゴールを迎えた。

 着差はわずかハナ差だったが、勝者と敗者の間には、何十馬身以上の溝があった。この敗北がミスターシービー陣営に与えた衝撃は大きかった。シンボリルドルフが相手ならいざ知らず、それ以外の、それもはるかに格下の相手にまで敗れ去るとは・・・。

 衝撃を受けたのは、ミスターシービー陣営の人々だけではなかった。

「シービーはもうピークを過ぎた」
「シービーの時代は終わった」

 こうした声は、ジャパンC、有馬記念での2度の敗北により、確実に競馬界の識者、そしてファンの間に浸透していた。なればこそミスターシービーは、四冠馬の誇りを守るためにシンボリルドルフに勝たなければならなかった。そのミスターシービーが、またもや負けた。それも、シンボリルドルフ以外の相手、Glでは勝ち負けすらしたことのない相手に。こんなことで、シンボリルドルフに勝てるのか。「シンザンを越えた」とうたわれ、おそらくは今後の競馬史において、「史上最強馬」と称えられるであろう絶対皇帝に。

 ミスターシービーは、「TTG時代」以降しばらくスター不在の時代が続いた中央競馬に久しぶりに現れた希代のスターホースだった。その破天荒な強さゆえに、ファンも圧倒的に多かった。だからこそ、ミスターシービーに対する彼らの声も大きく、その声は松山師や吉永騎手の耳にも入ってこざるをえなかった。

「こんなシービーは見たくない。勝てないのなら、潔く引退すべきだ」
「ばかみたいに後方一気の競馬を繰り返しても勝てない。岡部みたいな(好位からの)競馬をしろ」

 様々な批判は、ミスターシービーの主戦騎手である吉永騎手に対してぶつけられることが多かった。勝ち続けていたときには賞賛の声を一身に浴びた吉永騎手だったが、ジャパンC以降彼に向けられる声は、批判と非難の嵐に様変わりした。それは、あまりにも短期間での、あまりにも残酷な豹変だった。

 吉永騎手は、もともと無口な男である。彼は、厳しい批判、非難の声に対しても表立って反論することはしなかった。ただ、彼の内面では、ミスターシービーを愛するがゆえに、他人には計り知れない苛立ち、焦りがあったはずである。

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