ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~
『戦いの終わり』
天皇賞・春の敗北の後も現役を続行し、打倒シンボリルドルフの夢を追い続けるはずだったミスターシービーだったが、その後、長年の戦いの結果なのか、脚部不安を発症してしまった。松山師から脚部不安を告げられた千明オーナーは、約20分で引退を決断したという。
そしてミスターシービーは、現役を引退することになった。通算成績は15戦8勝であり、重賞はクラシック三冠、天皇賞・秋をはじめ6つを勝った。その競走生活の最後はシンボリルドルフに戦いを挑んで敗れ続けたものの、その戦いの姿は、敗れても敗れても戦いを挑み続けたその真摯な姿は、ファンの胸に深い感動を残した。
ミスターシービーの引退式は、その年秋、毎日王冠(Gll)当日に行われた。毎日王冠といえば、ミスターシービーがカツラギエースと死闘を演じたレースである。この日、天皇賞・秋で着けていた13番のゼッケンを再び身に着けたミスターシービーは、ファンの前で最後の走りを披露した。
ミスターシービーに魅せられた人々は、もうすぐ北海道へと帰っていく彼らの英雄に対して、心からの拍手を送った。夢を与え続け、そして男の生き様を示し続けた彼らの英雄に対し、スタンドの多くが等しく共有していたのは
「1度でもいいからルドルフに勝たせてやりたかった」
という思いだった。
その3週間後の天皇賞・秋では、1番人気のシンボリルドルフが直線でいったん先頭に立ったものの、人気薄の条件馬ギャロップダイナが出し抜けに強襲をかけ、まさかの差し切りを許しての2着に敗れている。ギャロップダイナはミスターシービーと同世代の準オープン馬だったが、絶対皇帝に襲いかかる彼の姿にミスターシービーの姿を重ね、あるいはそのさらに外から突き抜けるミスターシービーの幻を夢想したファンは多い。ミスターシービーファンの中には、今でも
「無事に天皇賞・秋にさえ出られていれば」
という声が根強いほどである。「ミスターシービーの本質はスプリンターだった」という説は当時からあった。この説は極論であるにしても、彼が最も得意としたのが2000m前後の距離だったことは間違いなさそうである。そして、脚質的に最もミスターシービーに向いていると思われる東京競馬場で行われる天皇賞・秋ならば、シンボリルドルフと互角に戦い、そして勝つことができたかもしれない・・・。
しかし、それはしょせんは夢の世界の話である。ミスターシービーは、シンボリルドルフには勝てないまま、競馬場を去っていった。それは、彼にとってのひとつの戦いの終わりだった。
『三冠馬の血の行方』
現役を引退して種牡馬となったミスターシービーは、トウショウボーイの後継種牡馬、そして三冠の栄光の血を後世に伝える使命を負い、北海道へと帰っていった。
種牡馬としてのミスターシービーへの期待がいかに高かったかは、日本最大の生産者である社台ファームの種馬繋養施設である社台スタリオンステーションに繋養されたことからも伝わってくる。当時の社台ファームの総帥である吉田善哉氏は、強い馬作りのためには内国産種牡馬では不十分と考えて、社台スタリオンステーションに内国産種牡馬を繋養していなかった。ミスターシービーは、その吉田氏に認められ、社台スタリオンステーション史上初めての内国産種牡馬になったのである。
ミスターシービーの種牡馬生活は順風満帆に見えた。89年にデビューした初年度産駒からは、ヤマニングローバルという大器が出現した。父譲りの末脚を武器としたヤマニングローバルは3歳戦線から活躍し、デイリー杯3歳S(Gll)を圧勝した。また、父と同じ松山厩舎に入厩し、鞍上に岡部騎手を迎えたことでも話題となったスイートミトゥーナも、その岡部騎手とのコンビでクイーンC(Glll)を勝って、クラシックへの期待を持たせた。さらに、2年目産駒からはシャコーグレイドが現れ、人気薄ながら皐月賞(Gl)への出走を果たしただけでなく、本番では苦しいだろうという多くの予想を裏切って2着に入った。そんな初期の産駒たちの活躍もあって、ミスターシービーの種付け権は、ピーク時には2000万円で取引されたほどである。
しかし、このように明るい部分ばかりを書いていくと大成功したかに見えるミスターシービーの種牡馬成績だが、彼は様々な悲運にたたられ、種牡馬としては陰のある存在とならざるを得なかった。
まず、ミスターシービーの代表産駒となったヤマニングローバルは、デイリー杯3歳Sを勝った後に骨折が判明し、長期の戦線離脱を余儀なくされた。この馬の骨折を知った鞍上の武豊騎手が
「来年のGlを4つ損しました」
と悔しがったのは有名な話である。
ヤマニングローバルの骨折は非常に重く、一時は安楽死が検討されたほどだった。しかし、彼は生き続け、そして戦い続けた。彼は脚にボルトを入れてターフへと蘇り、復帰後はアルゼンチン共和国杯(Gll)と目黒記念(Gll)を勝った。とはいえ、復帰前には父子二代の三冠の夢を見させてくれたその豪脚は、ついに完全に甦ることはなかった。
また、クラシック出走を果たしたスイートミトゥーナも、桜花賞では騎手を振り落としてしまい、結局初年度産駒のクラシック、そしてGl制覇はならなかった。
そして、翌年現れた皐月賞2着馬シャコーグレイドも、運命の悲運にもてあそばれることになった。彼が2着に入った皐月賞を制したのは、こともあろうにシンボリルドルフの初年度産駒トウカイテイオーだったのである。
トウカイテイオーは、その後ダービーも勝って不敗の二冠馬となった。「皇帝から帝王へ」というできすぎた伝承の陰で、もう1頭の三冠馬の子による殊勲は、忘れ去られてしまった。その後勝利から見放された彼が久しぶりの勝利を挙げたのは、その4年後の東京スポーツ杯(OP)であり、トウカイテイオーの引退式の当日だった。
他にも、有望視されていた幼駒がデビュー前に事故死するなど不運が重なったミスターシービーは、バブルの影響で種付け権の価格が上がりすぎたこともあり、やがて
「値段の割に成績が伸びていない」
といわれるようになり始めた。やがて繁殖牝馬の質が低下し、種牡馬成績も下降線をたどり始めたミスターシービーは、社台スタリオンステーションからレックススタッドへと移されることになったが、ミスターシービーがそれまで使っていた馬房に入ることになったのは、皮肉なことにトウカイテイオーだった。そのため、巷では
「現役時代にルドルフにどうしても勝てなかったシービーが、今度はルドルフの子に種馬場まで追い出された」
という皮肉な論評もされ、ミスターシービーファンを悔し涙にくれた。
『新世紀に遺したもの』
結局ミスターシービーは、その後も種牡馬としては目立った産駒を出せないままに終わり、ついに種牡馬生活を引退して千明牧場で余生を過ごすことになった。しかし、この20世紀屈指の名馬が21世紀を迎えることなく逝ったのは、先に書いたとおりである。現役時代にはファンを魅了したミスターシービーだったが、その種牡馬生活については、失敗に終わったといわなければならない。ミスターシービーの直子からは、ヤマニングローバルが種牡馬としてミスターシービーの直系をつないだものの、その先につながることなく断絶してしまった。
しかし、ミスターシービーの血統は、ブルードメアサイヤーとしてはそれなりに注目を集めた。ミスターシービーの娘であるサンヨウアローがアサティスとの間にもうけたウイングアローは、第1回ジャパンCダートなどで第3コーナーから凄まじいロングスパートを見せたが、芝、ダートの違いこそあれ、まさにミスターシービーの後継者を思わせるものだった。
ミスターシービーと同じように種牡馬としては失敗したものの、ブルードメアサイヤーとして優れた実績を残した例として、やはり米国の三冠馬であり、また米国史上最強馬といわれるセクレタリアトの例がある。米国三冠最後の一冠であるベルモントSで2着に31馬身差をつけて優勝したことで知られるセクレタリアトは、種牡馬としては失敗に終わったといわれているが、その娘たちが優秀な繁殖成績を収め、ブルードメアサイヤーとしてはきわめて高い評価を受けている。三冠馬ミスターシービーの血は、母系を通じて脈々と生き続けていくことになりそうである。
『叙情の三冠馬』
日本競馬史上3頭めの三冠馬は、歴代の三冠馬の中で強弱の順番をつけるとすれば、おそらく下の方に位置づけられてしまうことだろう。三冠を制するまではともかく、古馬になってからの彼の成績は、それまでの実績から考えると、満足できるものではなかったといわなければならない。それどころか、この馬の地位を三冠馬になれなかった馬よりも下に置くファンも、決して少なくない。
しかし、ミスターシービーはそのような論評ではとても語り尽くせない深さをもった馬であり、ファンの記憶の上ではまったく違った意味を持っていた。全盛期ですら「完璧な強さ」とは無縁だった彼は、その不安定さゆえに人々を熱狂させた。その後彼の前に立ちはだかったシンボリルドルフには一度も勝てなかったものの、それでも彼は、一度頂点を極めたがゆえに、敗れても敗れても己の誇りを捨て去ることができなかった。最後には、その己の誇りを捨ててまでただひとつの勝利を求めながら、ついにそれを己が手につかむことはできかった。そんなミスターシービーは、なればこそファンに強く愛されたのである。日本全体に近代的な合理主義が浸透していく中に現れたミスターシービーが、競馬の常識に挑んでは打ち破り続けた姿こそは時代の日常から消えゆく夢だった。そして、時代が変わり、自分自身のすべてが否定されようとする中にあって、あくまでも己の信じるままに生きようとあがき、もがき、そして新しい競馬の常識の集大成の前に敗れていったその生き様は、去りゆく古きよき時代への鎮魂歌でもあった。
同じ時代に生き、同じ時代に戦った2頭の三冠馬を評して、こういった人がいる。
「ルドルフは叙事詩、シービーは叙情詩」
信じられないような破天荒な戦いで勝ち進み、ファンの魂に、いつも違う何かを直接訴え続けたミスターシービーは、憎々しいまでの強さと絶対的な安心感ともいうべき確実性を備えて必然の勝利を積み重ねていった「叙事詩」シンボリルドルフとは、あくまでも対照的な存在だった。一度はすべての栄光をほしいままにしながら、絶対皇帝の冷徹なまでの強さの前に王座から引きずりおろされたミスターシービーは、かなわないことを半ば知りつつ、三冠の誇りも何もかも捨てて戦い、敗れることで、ファンの魂に自らを深く刻みつけた。勝利によってよりも、むしろその敗れゆく姿によって輝いた彼の存在は、まさに日本競馬が得た最大の叙情詩だった。
そんな叙情の三冠馬も、去りゆく20世紀とともに静かに眠りについた。それは、近年とみにマネーゲームとしての様相を濃くし、高額な輸入種牡馬とやはり高額な良血繁殖牝馬以外の組み合わせから名馬が出現する確率が非常に少なくなりつつある、つまり叙情の入り込む余地が小さく狭くなる一方の競馬界の変容を象徴しているかのようである。
しかし、虎は死して皮を残し、名馬は死して名と記憶を残す。ミスターシービーは、歴史に残る三冠馬として競馬の歴史に名を残し、そして移りゆく時代の中を生き抜き、古きよき時代に殉じて自らの生き様を刻み続けた馬としてファンの間に記憶を残した。たとえ競馬の現実が変わっていったとしても、競馬に単なるギャンブルとは異なるロマンを求めるファンがいる限り、ミスターシービーの戦い、そしてその雄姿が忘れ去られることはないに違いない。