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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

『最初の掟破り』

 そんな場長のもとに飛び込んできたのが、シービークインへの種付けの申し込みだった。血統、実績とも平凡な高齢牝馬が並ぶトウショウボーイへの交配申し込みリストの中で、シービークインの名前は断然に輝いていた。それなのに、規則では、トウショウボーイをシービークインと交配することは許されない。

 シービークインとトウショウボーイの交配の実現を望んでいたのは千明牧場側だけではなく、種馬場の場長も同様だった。種牡馬の成功と失敗は、集まる繁殖牝馬の質と量に大きく左右される。2年目の種付けを順調にこなしていたトウショウボーイは、受胎率が悪かった前年と違って、予想以上に繁殖牝馬の受胎率が良かった。そのため、追加申し込みがあれば応じられる状態だったのに、一般の馬産家たちはトウショウボーイに目を向けてくれない。せっかくトウショウボーイにふさわしい繁殖牝馬が相手からやってきたと思ったら、規則で交配できないという。

「そんなばかな話があるものか」

 輝かしい実績にもかかわらず、恵まれないスタートを切らざるを得なかったトウショウボーイの未来を心配していた場長は、熟考の末、掟破りの決断をした。
 
「トウショウボーイを種牡馬として成功させるために、シービークインと交配させよう」
 
 こうして同じ新馬戦でデビューしたシービークインとトウショウボーイとの運命的な交配は、現実のものとなった。軽種馬農協の上層部に報告すれば「規則違反だからダメ」といわれるに決まっている。そこで、千明牧場からの種付け申込みについては、上層部に報告を上げないまま、場長の独断で種付けを済ませてしまった。

 シービークインも、そんな人間たちの思いに応えるようにトウショウボーイの子を受胎した。後に掟破りの戦法でファンの魂をとりこにしたミスターシービーだが、実は彼は出生前の段階からして、既に「掟破り」だったのである。
 
 もっとも、サラブレッドに血統登録が必須である以上、彼の「悪行」は発覚しないはずがなく、この交配はやがて日高軽種馬農協の上層部も知るところとなった。おかげで場長は後からかなりしぼられ、ミスターシービーが走り始めるまではずいぶんと肩身の狭い思いをしたという。
 
 日高軽種馬農協農協の上層部が怒っても、シービークインの胎内に宿った子の存在までを否定することはできない。こうして翌春、シービークインは預託されていた浦河の牧場で、本来ならば生まれるはずのないトウショウボーイとの間の牡馬を出産した。それが、当時の呼び名で「シービークインの一」であり、後の三冠馬ミスターシービーとなる馬だった。彼の産地は、農協への申し込みの名残を残すように、実際には存在しない「浦河・千明牧場」とされている。
 
 「シービークインの一」を無事産み落としたシービークインは、その後何頭かの種牡馬と交配されたものの、不受胎が続き、ついに2頭目の産駒を送り出すことはなかった。「シービークインのニ」、すなわちミスターシービーの弟妹はいない。後の三冠馬は、そんな数奇な運命のもとに生を受けた。

『大器』

 生まれたばかりの「シービークインの一」は、牡馬にしては小ぶりで、最初は牝馬と見まがうばかりだったという。ただ、実際に立ち上がったその姿は非常にバランスがとれており、動きを見ても全身をうまく使って跳ね回り、バネがあって体がとても柔らかい印象を与えた。
 
 そんな「シービークインの一」を最初に見出したのは、美浦の新進調教師・松山康久師だった。美浦を代表する調教師である松山吉三郎師の息子である松山師は、父親が現役時代のシービークインを預かっていたという縁もあり、「シービークインの一」が生まれてから1ヶ月もしないうちに牧場を訪れて、この馬と出会った。そこで彼が「シービークインの一」から感じ取ったのは、身体の底から沸きあがってくるようなこの馬の将来性、可能性だった。
 
 松山師は、調教師になる前の若き日にある牧場で修行していたが、そこで
 
「近所の牧場にすごい馬がいる」
 
という噂を聞きつけた。そこで、「将来のために」とその馬を見学に行った松山師は、一流馬だけが持つ独特の雰囲気にため息をつき、いつかこの馬を超える逸材を、今度は自分自身の眼で探し出すことを夢見ていた。松山師が感心した馬とは、後の皐月賞馬ワイルドモアであり、「シービークインの一」とは、松山師がそれ以降初めて出会った、
 
「ワイルドモア以上かもしれない」
 
という可能性を感じさせる存在だった。

 松山師は、夏までの間に三度も牧場に「シービークインの一」を見に来ては、そのたびに馬の隅々まで観察し、ついにはこの馬を預かることに決めた。その後、父親の松山吉三郎師も牧場にやって来た際に、息子が預かることになったこの馬を見て、やはり絶賛して帰っていったという。
 
 さて、「シービークインの一」はやがて成長し、馴致を経て、鞍を乗せてのトレーニングが始まる季節を迎えた。「シービークインの一」は、生まれてしばらく経った時点でもう周囲の牧場から
 
「このあたりのトウショウボーイの子では一番いい」
「いや、それどころかトウショウボーイの良いところを全部もらったような子だ」
 
などという評価を得ていた。もっとも、最初は絶賛されていても、成長するにつれて目立たなくなっていく馬は多い。その点「シービークインの一」の評判と期待度は、時が経つとともにさらに上がっていった。
 
 一般には「トウショウボーイの子」として注目を集めることが多かった「シービークインの一」だが、彼に近い立場になればなるほど、
 
「トウショウボーイよりもむしろ母のシービークインに似ている」
 
という人が多い。「シービークインの一」は、普段はとても普段はおとなしくて人間のいうことにも素直に従ったが、いったん機嫌を損ねると、意地でも人間の言うことを聞かなくなってしまった。母親のシービークインもまさにそんなところがあったため、千明牧場の人々は、そんな性格も含めて

「母親にそっくりだ」
 
と苦笑いをしていた。

『ミスターシービー』

 「シービークインの一」は、やがて千明牧場の持ち馬として松山厩舎に入厩することになった。日高軽種馬農協の所有種牡馬の産駒は、原則としてセリ市に出さなければならないが、生産者が自ら馬主として走らせる場合はその必要がない。
 
 「シービークインの一」は、「ミスターシービー」という競走名を与えられ、正式に競走馬としての道を歩みはじめることになった。「シービー」というのは「Chigira Bokujo」の頭文字をとった千明牧場の冠名であり、「ミスターシービー」という競走名は、
 
「千明牧場を代表する名馬になってほしい」
 
という願いが込められたものだった。なお、有名な話ではあるが、「ミスターシービー」という名前の馬は、大作氏の祖父の代にも1頭存在する。こちらはスゲヌマが千明牧場の生産馬として初めてダービーを勝つ1年前の1937年に日本ダービーに出走するなどしたが、大レースでは目立った実績を残せなかった。

 大作氏は、

「今度『ミスターシービー』と名づけるときには、牧場を代表する名馬の名前にしなければいけない。いつか一生に一度の期待馬が現れた時にこの名前をつけてやろう」
 
とかねてから構想を温めていた。「シービークインの一」はそんな彼のお眼鏡にかない、「二代目ミスターシービー」となったのである。
 
 馬名も決まったミスターシービーが、これといった故障もなく松山厩舎へと送り出されたのは、1982年秋のことだった。それはミスターシービーの競走馬としての戦いの季節、そして日本競馬が燃えた時代の始まりだった。

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