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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

『母と子の戦友』

 このように、入厩当初からかなりの期待を集めていたミスターシービーではあったが、だからといってこのころから三冠を意識するような存在だったかというとそうではなかった。それはそうだろう。三冠とは、意識したからといって獲れるような生易しいものではない。1964年にシンザンが三冠を制覇して以来、中央競馬に三冠馬は現れていなかった。そんな偉業を入厩したての3歳馬で意識する方が無茶というものである。それに、たとえ関係者が意識している、といったところで、今度は周囲が誰も本気にしない。

 しかし、ミスターシービーが期待馬であることは間違いない事実であり、主戦騎手にもそれなりの騎手を呼んでこなければならない。松山師は、父の松山吉三郎師からもよく騎乗を依頼されていた吉永正人騎手に声をかけることにした。
 
 吉永騎手は、ミスターシービーの母であるシービークインの現役時代の主戦騎手だった。吉永騎手は、シービークインの出世レースとなった4歳牝馬特別で、シービークイン以外にも松山吉三郎厩舎に所属するお手馬がいたため、師から
 
「どっちでも好きな方に乗っていいぞ」
 
と言われた。もっとも、この時シービークインは14番人気の人気薄で、有力視されていたのはもう1頭の方だった。こちらは勝ち負けは確実とみられていたため、松山吉三郎師をはじめとする厩舎の人々は、吉永騎手は当然そちらの馬を選ぶもの、と考えていた。

 ところが吉永騎手が選んだのは14番人気のシービークインだった。そのため、松山吉三郎師らは、自分が「好きな方を選べ」と言ったことも忘れて
 
「あいつはいったい何を考えているんだ」
 
と呆れ返ったという。
 
 ところが、実際のレースになってみると、吉永騎手の好騎乗に助けられたシービークインは、見事な逃げ切り勝ちを収めた。シービークインの出世レースを演出した吉永騎手は、その後もシービークインの主戦騎手として戦いをともにし、思い出深い馬の1頭となっていた。そんな因縁の馬の初仔から依頼があったということで、吉永騎手もこれを快諾し、ここに終生のコンビが誕生することになった。

『吉永正人』

 ところで、「吉永正人」という騎手は、騎手界にその存在感こそ認められていたものの、騎手成績の上位でリーディングジョッキーの座を争うというような華やかな存在でもなかった。吉永騎手は、1986年に引退するまでの約25年間に渡って騎手生活を送ったが、彼がその間に積み重ねた勝利数は461勝で、最も多くの勝利を挙げたのは1971年の40勝に過ぎない。これはせいぜい「一流の下」か、下手をすると「二流の上」クラスの騎手のそれでしかなく、間違っても超一流騎手の数字とはいえない。
 
 また、彼のめったに表情を変えない無表情さは「鉄仮面」と揶揄されるものだった。そんな評価にも表情一つ変えない彼は、華やかなスター性とはまったく対極にある存在だった。彼を有名たらしめたのはその独自の騎乗スタイルであり、その特色は安定よりもむしろ不安定にこそあった。
 
 吉永騎手のレース運びは、なぜか馬群を引き離しての大逃げ、馬群からぽつんと取り残された追い込みといった極端なレースが多かった。このような戦術は、勝つときは派手だが、負けるときも極端である。そして、このような戦術を採った場合、勝つときよりは負けるときの方が圧倒的に多い。だからこそこれらの作戦は「極端な」作戦と呼ばれ、普通の騎手たちからは敬遠されてしまうのである。しかし、「職人」という言葉がよく似合うこの寡黙な男は、誰がなんと言おうとこの騎乗スタイルだけは、決して曲げようとはしなかった。
 
 そんな彼の騎乗スタイルは万人受けするものではなかったが、その分熱狂的なファンも多かった。中には、彼の騎乗スタイルを彼自身の人生と引き比べて論じる者も現れた。吉永騎手のそれまでの半生は、妻と早く死に別れ、子供を郷里に預けて暮らさざるを得なくなるなど、決して幸福なものではなかった。一時は、孤独のあまり酒浸りになったとか、再起不能とかいう噂まで流れたことまであったほどである。
 
 馬群を引き離しての大逃げをうち、また馬群を前に置いての後方待機を決め込む吉永騎手の騎乗スタイルを「ひどく孤独なレース運び」と評したのは、劇作家、歌人であるとともに熱烈な競馬ファン、そして吉永正人ファンとして知られていた寺山修司氏である。寺山氏は、吉永騎手の騎乗を単なるレース上の作戦、あるいは展開のアヤなどといったありふれたものとは考えなかった。むしろ、吉永騎手の背負った宿命、彼自身の性格のあらわれととり、そんな吉永騎手をこよなく愛した。

 もっとも寺山氏は、吉永騎手を「当代随一の名騎手である」と言いつつも、それに「私だけの考えを言えば」という留保を付けることを忘れなかった。そもそも寺山氏が吉永正人を愛したのは、吉永正人が当代随一の名騎手だったからではなく、吉永正人のレースの中に、孤独な1人の男の人生を見出したからにほかならなかった。寺山氏は、亡き妻が遺した子供たちを郷里に残し、人生で一番大切なものを失いながら、一人黙々と馬に乗り続けた吉永騎手の生き方の中に男の孤独を見た。そして、馬群からただ一騎ぽつんと離れ、ある時は大逃げをうち、またある時は直線強襲に賭ける、そんな職人の背中に、世俗からいかに批判されようと己の生き方を貫きとおす気高さと、そんな不器用な生き方しかできない悲しみを感じた。吉永騎手とは、詩人でもあった天才劇作家の繊細な魂を揺さぶる、そんな何かを持った男だった。
 
 そして、そんな特色を持つ吉永騎手とコンビを組んだことは、後々ミスターシービーの戦いに大きな影響を与えることになる。しかし、この時点では吉永騎手自身を含めて誰一人、そのことを予測し得る者はいなかった。

『その名にふさわしく』

 松山厩舎に入厩し、吉永騎手を主戦に迎えることも決まったミスターシービーは、やがて大きなトラブルもないまま順調に仕上がり、デビュー戦として東京芝1600mの新馬戦に出走することになった。
 
 このレースは11頭立てとなったが、天馬トウショウボーイと内国産の名牝シービークインの仔という血統に後押しされたミスターシービーは、単勝200円で堂々の1番人気に支持された。
 
 もっとも、この日の松山師、吉永騎手たちの自信は、単勝オッズ以上に強固なものだった。
 
「こんなところで負けるはずがない」

 ミスターシービーを預かった彼らは、共通してもっと大きなところを狙えるという手応え、そして夢を確かにミスターシービーから感じ取っていた。これほどの大器が、新馬戦なんかで負けてはいられないし、また負けるはずがない。それは、名馬となり得る素質を持った馬を預けられた男たちの自負であり、責任感だった。
 
 そしてミスターシービーも、男たちの期待が決して不相応なものでないということを、自らの実力で示した。ミスターシービーは、一生に一度の記念すべきデビュー戦で、後続に5馬身の差をつけて圧勝したのである。
 
 スタートではやや立ち遅れたミスターシービーだったが、その後先行集団にとりついたミスターシービーは、勝負どころでは他の馬を置き去りにして、絶対能力の差だけであっさりと馬群を抜け出した。あとは、後続をみるみる引き離していくだけだった。その勝ち方は、当時のファン、そして関係者たちの期待にまったく違わないものだった。

 続いて舞台を中山競馬場に移し、黒松賞に出走したミスターシービーは、ここでも1番人気に支持された。ファンも関係者も、まさかこのレースでミスターシービーの思わぬ弱点が露呈することになろうとは思ってもいなかった。

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