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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

『泥まみれの一冠』

 この日の中山競馬場は、単なる不良馬場と言うにとどまらず、雨の中でずっとレースが行われ、湿った状態のまま馬たちにコースを踏み荒らされてきた影響で、馬が走れば泥が飛ぶ、そんな最悪のコンディションになっていた。心の弱い馬ならば、泥が顔に当たるだけでも走る意思を失ってしまっても不思議ではない。だが、そんな中でまくり気味のスパートをかけたミスターシービーは、前の方の馬たちが蹴り上げた泥を顔に直接かぶり続けながらも、ただ前だけを見据えていた。この日競馬場に集まった大観衆、そしてテレビ中継に見入っていた視聴者たちが見たのは、トウショウボーイの子であるがゆえに「天馬二世」とも呼ばれた日本競馬の貴公子が、大きな不利を受け、泥にまみれながらも、ただ自分の競馬を貫いて突っ走る姿だった。
 
 ミスターシービーは、第4コーナーではもう先頭集団に取り付こうという位置まで進出していった。直線に入ったミスターシービーは、それまでレースを引っ張ったカツラギエースをほぼ馬なりのまま捉えると、追いすがるメジロモンスニーを尻目に、悠然と栄光への一本道を駆け抜けていく。

 ミスターシービーは、皐月賞を制した。馬にとってはトウショウボーイに続く皐月賞父子制覇の達成であり、また吉永騎手にとっては、クラシック初勝利とともに、「クラシック34連敗」という不名誉な記録を止めた記念すべきゴールであった。
 
 レースの後は、ミスターシービーも吉永騎手も、顔はもちろんのこと、その全身が泥まみれになっていた。しかし、それは彼らが悪条件に屈せず人馬一体となって戦い抜き、そして栄冠を掴んだ証としての勲章だった。道中大きな不利を受け、さらに他の馬が蹴り上げる泥を全身に浴びながら、まったくひるむことなく馬群を切り裂いたそのまくりは、競馬界に新たな「伝説」を刻んだ。この時ミスターシービーと2着に入ったメジロモンスニーとの着差は半馬身だったが、2頭の間には、着差では到底言い表せない絶対的な差があった。

『一冠と二冠の間』

 ミスターシービーの皐月賞制覇を伝えたこの日の競馬中継は、ゲストとして寺山修司氏を迎えていた。寺山氏は前に書いたように吉永騎手の熱狂的ファンであったから、35度目の挑戦にしてついにクラシックを手にした吉永騎手の栄光に狂喜したことは言うまでもない。しかし、当時の知識人に少なからぬ影響を与えた詩人であり、また劇作家でもあった彼は、この時既に肝硬変を宣告され、余命幾ばくもない状態だった。この日の彼は、病院から抜け出して競馬に熱中していた。
 
「おそらくは、吉永のダービーを見届けることはできないだろう」
 
 そのことを予感していたと言われる寺山氏は、その予感の通り、ミスターシービーが皐月賞を制覇した5日後に昏倒し、ダービーを迎える25日前に、47歳の若さで逝った。

「競馬が人生の縮図なのではない、人生が競馬の縮図なのだ」

 そう喝破した鬼才の早すぎる死は世間に強い衝撃を与え、そして彼が最後まで気にかけていた馬と一人の男、すなわちミスターシービーと吉永正人に対する注目をより強める結果となった。かくして、競馬にロマンを追い求め続けた男の死と引き換えにするかのように、ミスターシービーと吉永騎手は、彼ら自身が競馬のロマンの体現者であるかのように、時代の人々から視線を集めるようになっていったのである。

『吉永とダービー』

 皐月賞を強烈なまくりで制し、また競馬ファンはもちろん必ずしもそうではなかった人々の注目をも集めるようになったミスターシービーは、いよいよ希代の人気馬として、日本競馬の一大スターへの道を歩み始めた。
 
 しかし、人気が集まれば集まるほど、その反作用も強まるのが競馬の世界の掟である。ミスターシービーもその例外ではなく、ミスターシービーが人気になればなるほど、その裏ではミスターシービーの不安点がいろいろとささやかれるのも、また仕方のないことだった。
 
 まず指摘されたのは、吉永騎手の大舞台での勝負弱さである。吉永騎手は、ミスターシービーとの皐月賞制覇でようやく止めたとはいえ、それまでクラシック34連敗という不名誉な歴史を持っていた。また、モンテプリンスで天皇賞を勝つ前には「八大競走52連敗」というさらに凄まじい数字も残っていた。
 
 吉永騎手とダービーといえば、なんといってもモンテプリンスでの敗北が有名である。吉永騎手は1980年クラシック戦線で、デビュー前から大器という評判だったモンテプリンスに騎乗した。皐月賞では大嫌いな重馬場に祟られて4着に敗れたものの、ダービー前哨戦のNHK杯で圧勝し、ダービー当日は晴天もあって、モンテプリンスは大本命に支持された。ところが、この日吉永騎手は伏兵オペックホースの大駆けの前に屈し、世間からは「騎乗ミス」「勝てるレースを落とした」と叩かれた。誰よりも望んでいたものを手に入れられなかっただけでなく、マスコミやファンから強い批判まで浴びせられた彼には、いつしか「勝負弱い騎手」というイメージが固定化されていたのである。

『ダービー・ポジション』

 さらに、ミスターシービーという馬自身の不安として、極端すぎる追い込み脚質も挙げられていた。当時の競馬界では、ダービーにおける「ダービー・ポジション」の言い習わしがまだまだ生きていたためである。
 
 「ダービー・ポジション」。それは、日本ダービーにおける東京競馬場第1コーナーで、前から10番手以内の位置のことである。ダービーは差し馬、追い込み馬が有利といわれる東京2400mコースで行われる半面、出走馬たちも、世代の頂点を目指すハイレベルな顔ぶれとなる。それゆえに、どんな展開であっても好位に付けた馬たちが総崩れになるような展開にはならず、後ろから行った馬は届かない。ダービーを勝つためには、第1コーナーで前から10番手以内にいなければならない・・・。それが、「ダービー・ポジション」の神話だった。
 
 もちろんこれには例外もあり、直線だけで20頭以上をぶっこ抜いた1971年のダービー馬ヒカルイマイの例もある。しかし、そんな少数の例外をはるかに上回る数の強豪たちが、「有力候補」といわれながらも「ダービー・ポジション」の罠にはまり、ある時は前が止まらず、ある時は脚を余して届かず、夢破れてきた。ダービーの歴史とは、追い込み馬たちの敗北の歴史でもあった。
 
 しかし、こうした不安を理由にミスターシービーの敗北を予言するファンや評論家は、あくまでも少数派に留まった。多くのファンは、ミスターシービーがこうした不安を乗り越えて二冠を達成することを願い、そして信じていた。というよりも、彼らはこうした不安があったからこそ、ミスターシービーに声援を送ったのである。不安があるからこそ、常識があるからこそ、それを打ち破って次々と栄冠を手にするミスターシービーの偉大さもまた、より強く輝く。皐月賞を豪快に勝った「常識に挑む馬」ミスターシービーが次に挑むのは、日本競馬の最高峰であるダービーの常識だった。

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