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ミスターシービー本紀~三冠馬の栄光と挫折~

『彼のためのダービー』

 皐月賞馬・ミスターシービーは、これといった大きなトラブルもなくダービーを迎えることができた。最初は「最後方からのまくり」という不安定な作戦でファンを不安がらせたミスターシービーだったが、気が付いてみれば、この作戦を意図的に採るようになった1983年に入ってからの戦績は3戦3勝である。追い込みもそろそろ「板についてきた」といっていい。また、血統的にも、父はダービー2着で有馬記念を勝っており、母は凱旋門賞馬の娘である。もともと
 
「クラシックで楽しめる先行馬を作りたい」
 
という意図の下に配合されたミスターシービーが、菊花賞ならいざ知らず、ダービーでぴたりと止まるとは、考えにくい。
 
 父子二代の皐月賞制覇を達成したミスターシービーが次に挑むダービーは、父トウショウボーイが一度は半ば勝利を掴みかけながら、クライムカイザーと加賀武見騎手の斜行すれすれの奇襲に遭って、無念の2着に敗れたという因縁のレースでもある。皐月賞では父に続いたミスターシービーがダービーで目指すのは、父が果たせなかった夢の実現であり、偉大な父を超えていくことだった。

「この坂は 父の無念の なみだ坂 今ぞ果たさん 悲願の戴冠 ミスターシービー 男の勝負」

 この日掲げられた横断幕は、そんな彼への期待を顕著に物語っていた。彼に対する支持の声の大きさは、単勝190円という圧倒的な数字として現れた。50回目を迎えた区切りのダービーで、皐月賞での人気をさらに超える支持を集めたミスターシービーの単勝オッズは、この日のダービーがまぎれもなく「ミスターシービーのためのダービー」であることを物語っていた。

『湧き上がる不安』

 しかし、こうした雰囲気とは裏腹に、レース前のミスターシービー陣営は、ダービーを楽観してはいなかった。
 
 松山師は、それまでのミスターシービーのレースにつきまとう、強さと同居する脆さを心配していた。ファンはそのことを承知の上で、というよりはそのことゆえにミスターシービーを支持しているにしても、直接馬を管理する立場になると、そんなことを言ってはいられない。
 
 基本的に自分でレースを作ることができず、アクシデントの影響も受けやすい追い込み馬でありながら、ミスターシービーは、日本競馬最高のレースであるダービーで断然の1番人気に支持されている。断然の1番人気になるということは、無様な競馬をすることが許されないばかりでなく、他のすべての馬からマークされ、レースの中心として戦わなければならないということでもある。そんな厳しい包囲網をさらに打ち破り、勝利を手にしうるかどうかと問われると、希望よりはむしろ不安の方が先に立つのもやむを得ないことだった。
 
「この馬は、過大評価されているのではないか」

 この時期松山師は、そんな思いにとらわれることもあったという。
 
 そして、陣営の不安をさらにあおるような不吉な事件は、当日のパドックで起こった。パドックを周回している途中、ミスターシービーのハミ吊りが突然切れてしまったのである。
 
 単なる縁起かつぎといえば、それだけのことである。しかし、圧倒的な人気よって彼らの馬から不安の馬、大衆の馬となりつつあったミスターシービーでダービーに臨む彼らにとって、その「凶兆」は心に重くのしかからざるを得なかった。ミスターシービーを送り出す人々は、ファンよりははるかに不安な気持ちをもって、一生に一度の舞台へと向かうミスターシービーを見つめていたのである。
 
 そして、ダービーのゲートが上がった瞬間現実のものとなったのは、ファンの期待よりはむしろ関係者の不安のほうだった。

『絶望、そして・・・』

 第50回日本ダービーを迎えた東京競馬場は、日本最高のレースのスタートとともに、異様などよめきに包まれた。皐月賞馬にして圧倒的な1番人気に支持されたミスターシービーが、見事に出遅れてしまったのである。
 
 もともとミスターシービーのスタート下手は、デビュー当初から欠点とされていた。3歳時のミスターシービーは出遅れの常習犯であり、今の戦法も出遅れの中から偶然会得したものだということは、先に書いたとおりである。しかし、4歳になってからのミスターシービーは、それまで目立つほどの出遅れはなく、作戦として最後方待機をとっているだけに過ぎなかった。練習の成果なのか、それとも気性的に成長したのか。理由ははっきりしないにしても、この時期スタートへの不安はかなり薄らいでいたはずだった。それなのに、まさか一番大切なレースでその病気が再発するとは・・・。もともと「ダービー・ポジション」などという神話が伝えられていたダービーであるだけに、出遅れがもたらすダメージも大きい。

 不良馬場だったことから「先行するかもしれない」と言われていた皐月賞ですら最後方待機策をとって勝ったミスターシービーにとって、最後方からの競馬はむしろ魅力の源泉だった。ファンの間でも、ミスターシービーが「ダービー・ポジション」を狙って先行策をとると思っていた人はそう多くなかったし、またそんなレースを望んでもいなかった。彼らが望んでいたのは、そうした常識を打ち破る勝利だったからである。しかし、そんな人々にとってすら、この時の出遅れは致命的なものに思われた。ミスターシービーのダービーは、そして二冠達成の夢は、スタートと同時に終わってしまった。・・・誰もがこの時はそう思った。

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