1991年牝馬三冠勝ち馬列伝~彼女たちの祭典~
~イソノルーブル~
1988年3月13日生。牝。鹿毛。能登武徳牧場(浦河)産。
父ラシアンルーブル、母キティテスコ(母父テスコボーイ)。清水久雄厩舎(栗東)。
通算成績は、8戦6勝(旧3-4歳時)。主な勝ち鞍は、オークス(Gl)、4歳牝馬特別(Gll)
ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)、エルフィンS(OP)。
その2 =イソノルーブルの章=
『臥薪嘗胆』
勝者のスポットを浴びることが許されるのは、ただ1頭のみである。華やかな勝者となったシスタートウショウ陣営の影で、辛い思いをした人々もいた。その代表が、思わぬアクシデントで一敗地にまみれたイソノルーブル陣営である。
この時のオークスは、いわゆる「イソノルーブル事件」として蹄鉄を打ち直すことなく発走させたJRAの対応の是非が議論され、世間を大いに騒がせた。イソノルーブルの落鉄自体は場内にアナウンスされていたものの、蹄鉄の打ち換えを断念して裸足で発走させたことはアナウンスされず、レース後に真相を知った多くのファンに、納得のいかない感を与えたことは否定できなかった。中には、イソノルーブル絡みの馬券を買ったファンが
「蹄鉄を打ち直すことなく発走させたことを入場者に告知しなかった違法によって財産的、精神的損害を受けた」
として、JRAを訴えるという珍騒動まで起こったほどである(東京地裁(ワ)4621号、平成3年11月21日判決)。ある有名な評論家(?)は、この日のイソノルーブルの桜花賞を「靴を忘れたシンデレラ」にたとえたが、そのオチは、
「シンデレラは王子様に見つけてもらえたけれど、イソノルーブルは王子様に見つけてもらえなかった」
というものだった。しかし、当事者の悔しさは、期待が大きかっただけに、なおさらそのような冗談で済むほどの生半可なものではなかった。
イソノルーブルの担当厩務員は、イソノルーブルを出張馬房に連れ帰って蹄鉄を打ち直させてもらえるよう係員に頼みこんだにも関わらず、まったく取り合ってもらえなかったこともあり、
「他の馬にハナを譲ったことのないこの馬が、泥をかぶって涙を流しとる」
と悲嘆の涙に暮れた。また、イソノルーブルに騎乗した松永幹夫騎手は、翌日には知人の結婚式に出席する約束をしていた。彼としては、桜花賞に勝って結婚祝いに花を添えるつもりだったが、それがこの惨状である。突然知人の結婚式をキャンセルした松永騎手の行く先は、イソノルーブルがいる清水久雄厩舎だった。彼は、イソノルーブルの馬房の前で彼女の顔を見ながら、
「俺はGlなんて一生勝てないんじゃないか?」
と悲運を嘆き、呆然と立ち尽くしていたという。松永騎手は、角田騎手より3歳年上だったが、これまで順調に勝ち星を重ねてきてはいても、今日この日まで、まだGlというものを勝ったことがなかったのである。
5戦5勝、無敗のまま臨んだ桜花賞。トライアルも勝ち、出走馬中ナンバーワンの実績を積み重ねて駒を進めたはずだった大舞台。それなのに、少しずつ積み上げてきた自信は、思わぬアクシデントの前にあっさりと打ち砕かれた。イソノルーブルが手にするはずだった「無敗の桜花賞馬」の地位は、シスタートウショウに奪われてしまった。清水師も、悔しくないはずがない。負けた相手がイソノルーブルとは対照的に名門牧場で生まれた良血馬シスタートウショウだっただけに、なおのことだった。イソノルーブルは、血統的には地味、かつ無名の小牧場で生まれた安馬である。それだけに、生まれながらにすべてを兼ね備えた良血馬にアクシデントで負けたままでは、馬にあまりにも申し訳なかった。
「オークスでは負けられない!」
「特に、シスタートウショウだけには!」
そうした熱い闘志が清水師、松永騎手、その他イソノルーブル関係者すべての胸を、熱くたぎらせた。
『雑草』
イソノルーブルの生まれは、浦河の能登武徳牧場である。能登牧場は、繁殖牝馬が5頭前後しかいない無名の小牧場で、イソノルーブルが登場するまでの間、クラシックはおろか重賞への出走を果たした馬さえ出ていなかった。
イソノルーブルの母キティテスコは、能登牧場が浮沈を賭けてオンワード牧場から購入した繁殖牝馬キティオンワードに、大種牡馬テスコボーイを交配して生まれた娘で、牧場の期待も大きかった。ところが、キティテスコが現役時代に残した戦績は5戦未勝利で、さらに繁殖としても、イソノルーブルの兄姉3頭は競走馬としてのデビューさえ果たせなかった。イソノルーブルの父であるラシアンルーブルも、現役時代の実績はたいしたことがなく、最大の売りは「マルゼンスキーと同配合」という他力本願なものに過ぎない。そんな両親の間に生まれたイソノルーブルだから、
「血統的に見るべき点は何もない」
と言われても仕方がない。
しかし、能登氏はイソノルーブルにひそかな期待をかけていた。キティテスコの3番子で、イソノルーブルにとって全兄にあたる2歳上の産駒は、幼駒時代から馬体がたいへんあか抜けており、セリで1000万円近い値がついた後、中央競馬に入厩して期待を集めていた。
この全兄は、残念ながらデビュー直前に骨折して安楽死となってしまったため、ついに華やかなスポットライトを浴びることはなかった。だが、彼の幼駒時代の素晴らしい馬体は、能登氏の記憶にはっきりと残っていた。能登氏は兄の再現を期待して、キティテスコにもう一度ラシアンルーブルをつけることにした。こうして生まれたのが、イソノルーブルだった。
『買い手なし』
こうして生まれたイソノルーブルは、馬体の見栄えのよさでは兄に遠く及ばず、能登氏をがっかりさせたものの、とても丈夫で元気のいい牝馬だった。父に似て気性はあまりよくなかったものの、気性難は根性と紙一重ともいえる。彼女のいつも先頭を走りたがる性格は、競走馬にとっては極めて重要な資質といえた。
しかし、何人かの競馬関係者がイソノルーブルを見に来たものの、皆が最後には
「血統が良くない」
ということで二の脚を踏むため、馬主はなかなか決まらなかった。このまま買い手がつかないと、イソノルーブルは競走馬になることができない。
『落札者の名は…』
能登氏は、イソノルーブルを2歳馬の特別市場に上場することにした。特別市場とは、上場を申し込んだ馬の中から馬体審査に合格した馬だけが上場されるセリのことである。馬体審査によって上場される馬の質がある程度担保されていることから、売却最低価格も500万円と高い。イソノルーブルは、この審査に合格し、セリ市で買い手が現れるのを待つことになった。
そしてセリの当日、いよいよイソノルーブルの順番が回ってきた。果たしてこの仔馬の資質を見抜いてくれる買い手は現れるのか。緊張とともに買い手から声をかかるのを待った能登氏は、やがて最低売却価格の500万円で買いをかける声を聞いた。
結局この後買値をつり上げる他の買い手は現れず、イソノルーブルは最初に声をかけた買い手に500万円で競り落とされた。その買い手とは、中央競馬の主催者であるJRAだった。