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アグネスフライト列伝~一族の見た夢~

 1997年3月2日生。牡。栗毛。社台ファーム(千歳)産。
 父サンデーサイレンス、母アグネスフローラ(母父ロイヤルスキー)。長浜博之厩舎(栗東)
 通算成績は、14戦4勝(旧4-7歳時)。

 主な勝ち鞍は、東京優駿(Gl)、京都新聞杯(Gllll)、若草S(OP)。

『ダービーに賭けた夢』

 東京優駿・・・一般に「日本ダービー」と呼ばれることが多い日本競馬の世代別最強馬決定戦は、多くの物語を歴史に刻んでいる。

 「ダービーに勝てたら、騎手をやめてもいい」という言葉が有名な1700勝騎手の柴田政人騎手は、騎手生活27年目を迎えた1993年にウイニングチケットとともに第60回東京優駿を制し、19回目の挑戦で悲願を成就させた。また、一時は「終わった」と言われた中野栄治騎手が90年のアイネスフウジンで見事な逃げ切りを果たした際には、府中のスタンドから「ナカノ・コール」が巻き起こった。その一方で、「モンキー乗り」の創始者の1人で「ミスター競馬」と称された野平祐二師は、騎手としては悲しいまでにダービーに縁がなく、騎手として25回挑戦しながら、ついに一度も勝つことができなかった。また、1958年から皐月賞3連覇を達成し、同レースの最多制覇記録を持つ渡辺正人騎手も、19度挑戦したダービーではことごとく敗れ続けている。

 そんなさまざまな悲喜劇を生み出してきた日本ダービーの歴史だが、20世紀最後のダービー勝ち馬としてその名を刻んだアグネスフライトと河内洋騎手の物語は、その中でも異彩を放っている。

 1974年に武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューし、「天才」と呼ばれた福永洋一騎手の落馬事故という悲劇の後を受けて関西騎手界に君臨するようになった河内騎手は、その後3度にわたって騎手全国リーディングを獲得し、さらにメジロラモーヌでの牝馬三冠達成や桜花賞4勝という実績により、「牝馬の河内」の異名をとるようになっていった。また、騎手としての技量のみならず、94年から日本騎手クラブ関西支部長をも長く務め(なお、会長は関東の柴田騎手、岡部騎手)、騎手、調教師、そしてファンから信頼され、親しまれ続けた。

 そんな実力と信望を備えながらもダービーとは無縁だった河内騎手が、騎手生活27年目にして初めて夢を果たしたのが、第67回東京優駿である。前人未到のダービー3連覇を目指した弟弟子との壮絶な死闘の末に栄光を勝ち取った河内騎手だが、この時彼が騎乗したアグネスフライトは、かつて彼が祖母、そして母に騎乗したという因縁の血統で、さらに東京優駿の舞台である東京の芝2400mコースも、彼女たちが死闘を繰り広げた戦場でもあった。

 アグネスフライト・・・河内騎手にダービーをもたらしたサラブレッドは、「騎手・河内洋」とともに歩んだ血統の末裔として、一族の夢を果たしたサラブレッドでもあった。祖母、母から受け継いだ血のもとに大輪の華を咲かせた彼の物語は、私たちに競馬のロマンの一端を教えてくれる。

『血の歴史』

 アグネスフライトは、1997年3月2日、日本最大の生産牧場として知られる千歳の社台ファームで産声を上げた。彼の父は日本の馬産界に旋風を巻き起こした大種牡馬サンデーサイレンス、母は90年の桜花賞馬アグネスフローラとくれば、期待されない方がおかしい超良血馬だった。

 アグネスフライトの牝系の物語は、1967年に持込馬として生まれた曾祖母イコマエイカンに始まる。競走馬としては9戦1勝という凡庸な成績に終わったイコマエイカンだったが、三石の折手正義牧場で繁殖入りしてからの実績はめざましいもので、初子のグレイトファイターが小倉大賞典を勝ったのを手始めに、2番子クインリマンドは桜花賞2着の実績を残し、3番子タマモリマンドは京阪杯を制した。

 そんな兄姉たちに続いて生まれた4番子が、アグネスレディーだった。活躍馬が相次ぐイコマエイカンの子として生まれたアグネスレディーは、その兄姉をも大きくしのぐ実績を残した。1979年オークスを1番人気で勝ち、同世代の牝馬の頂点に立ったのである。その後も京都記念、朝日チャレンジカップを勝ったアグネスレディーは、イコマエイカン一族の中でも押しも押されぬ「出世頭」となった。

 ところで、アグネスフライトは社台ファームで生まれているが、この一族が最初から社台ファームと縁があったわけではない。彼らと縁が深かったのは、むしろ三石の折手正義牧場だった。イコマエイカンが折手牧場に繋養されたため、アグネスレディーはこの牧場で生まれ、さらに引退後も、折手牧場へと帰ってきた。

 繁殖牝馬としてのアグネスレディーに寄せる関係者たちの期待は大きく、初めての種付けでは、馬主である渡辺隆男氏のたっての希望により、英国に渡って初代欧州三冠馬・Mill Reefと交配された。こうして生まれたミルグロリーは、デビュー前に故障して未出走のまま引退してしまい、その後の産駒もいまひとつの成績が続いたものの、彼らはアグネスレディーへの希望を捨てなかった。渡辺氏と折手氏は、相談の上で

「母が勝てなかった桜花賞を獲りたい・・・」

という願いを込め、産駒がマイルから中距離で実績を残していたロイヤルスキーと交配することにした。こうして生まれたのが、アグネスフローラだった。

 母から11年後、90年の牝馬クラシック戦線へと挑んだアグネスフローラは、血に込められた願いを果たし、無敗の5連勝で桜花賞を制した。その後、母子制覇をかけたオークスで2着に敗れたのを最後に脚部不安を発症して引退したアグネスフローラだったが、通算成績は6戦5勝2着1回というほぼ完璧なもので、その華麗なる軌跡は、今なおファンの記憶に残っている。

『悲劇から始まる運命』

 アグネスフローラが引退を決めるまでの間、多くの人々は、アグネスフローラが折手牧場で繁殖入りするものと思っていた。アグネスレディー、アグネスフローラと母子2代にわたって折手牧場で生まれ、そしてクラシックを制した彼女の一族の系譜を見れば、現役を退いた後は、アグネスフローラも折手牧場で繁殖入りするのが、自然な流れであるはずだった。

 しかし、アグネスフローラの馬主である渡辺氏の意向は違っていた。アグネスレディー同様、アグネスフローラについても引退後の所有権を手放す意思がなかった渡辺氏は、母子2代にわたってクラシックを勝った名牝の系譜に対し、特別な待遇を望んだ。そんな彼の頭からは、桜花賞を勝った直後に話しかけてきた男の申し出が離れなかった。

 アグネスフローラが桜花賞を勝った直後に渡辺氏に話しかけてきたのは、日本最大のサラブレッド生産牧場・社台ファームの後継者とされていた吉田照哉氏(現社長)だった。

「いい馬ですね。万が一売る時があったら、ぜひうちで面倒を見させて下さい・・・」

 渡辺氏は、日本最大の牧場の後継者からも高く評価されるに至ったアグネスフローラの現実を見て、考えた。折手牧場は、繁殖牝馬が10頭もいない、典型的な日高の中小牧場である。渡辺氏は、母子二代のクラシック馬を輩出し、名牝系と意識されるようになったこの系統を、折手牧場に預け続けることに不安を感じていた。施設、牧草、そして殺到するマスコミへの対応・・・あらゆる局面で「最高」を求めた先にたどりついた結論は、ある意味で非情なものだった。オークス(Gl)の後に社台ファームに放牧に出されたアグネスフローラは、ターフ、そして生まれ故郷の折手牧場に帰ることなく、社台ファームで繁殖入りすることになったのである。

 一族の運命を変えたこの決断は、ひとつの悲劇の遠因ともなった。アグネスフローラの引退の3年後、アグネスレディーも折手牧場から社台ファームへと移動することになった。しかし、社台ファームの馬運車が迎えに来た時、折手牧場には二度と戻ってこれないことを察したかのように、アグネスレディーは馬運車に乗ることを嫌がり、大暴れして激しく抵抗した。折手氏は、やむなく社台ファームの馬運車を帰し、自分が運転する馬運車で、アグネスレディーを社台ファームに送り届けなければならなかった。ところが、断腸の思いでアグネスレディーを手放した折手氏を待っていたのは、アグネスレディーがそれから10日も経たないうちに亡くなったという悲報だった。

 社台ファームへと移動したアグネスレディーは、牧場内を移動するために乗せられた馬運車の中で、再び暴れた。その暴れ方たるやすさまじく、なんと背骨を骨折してしまい、そのまま帰らぬ馬となったのである。そんな悲劇によってアグネスレディーを手放した折手牧場に、アグネスレディーの血を引く血統は残っていないという。

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