アグネスフライト列伝~一族の見た夢~
『託されたダービー』
ダービー当日の1番人気に支持されたのは、単勝200円の皐月賞馬エアシャカールだった。皐月賞でそのエアシャカールと激しい死闘を演じて2着に残ったダイタクリーヴァが480円でこれに続き、アグネスフライトは510円の3番人気となっていた。
しかし、この日アグネスフライトの状態を見に行った河内騎手は、長浜厩舎のスタッフたちによって渾身の仕上げをかけられたアグネスフライトの万全の仕上がりを確認し、満足していた。いい勝負ができる・・・彼の騎手としての経験と勘が、そう確信させた。
レースを前にした長浜師は、河内騎手に対して
「これは河内のダービーだ、好きに乗ってこい!」
と激励したという。河内騎手との交流が深い長浜師は、いまさらの「言葉」よりも、河内騎手の「思い」に賭ける方がはるかに有効であることに、気づいていたのだろうか。長浜師、渡辺氏、そしてアグネスフライトを取り巻く関係者たちの願いと情熱は、この時すべて河内騎手に託された。ダービーの特別さを知り尽くした河内騎手は、自らに託されたものの重みを肌で感じていた。
『予想外のスタート』
この日の河内騎手は、アグネスフライトのスタートが下手であることを前提として、後方からの競馬をする作戦を立てていた。
「エアシャカールを意識しすぎて、アグネスフライトのよさを消してしまっては何にもならない」
そう考えた河内騎手は、好位や中団につけて馬ごみの中で消耗させるよりは、アグネスフライトのよさ、つまりレース終盤での瞬発力を生かすために、前半を捨ててもいい、と思い切ったのである。
ところが、実際の日本ダービーのスタートで河内騎手を待っていたのは、「デビュー以来最高のスタート」だった。
「よりにもよって、こんな時に出るなよ」
河内騎手は驚き、あきれた。アグネスフライトがまともなスタートを切る可能性などまったく想定していなかったという彼は、
「このまま行かれたら、困るな・・・」
と戸惑いを隠せなかった。
『敵は己のみ』
ただ、予想外の展開は、競馬の常である。日本最高のレースでまったく思いもしない展開となった場合、経験のない若手騎手ならそれだけで終わってしまうことも少なくないが、そこはさすがに関西の大ベテランで、すぐさまアグネスフライトを対応させるべく、手を打った。
アグネスフライトは、スタート後間もなく息を入れ、かかることもなく馬群の後方へと下がっていった。もともと河内騎手は、馬と折り合いをつける力には定評がある。アグネスフライトの位置は、好スタートにもかかわらず、18番目・・・最後方に落ち着いた。
先行争いが激化し、戦前の予想に比べてペースが上がり、馬群も縦長になっていく中で、最大のライバルとされるエアシャカールと武騎手は馬群の真ん中よりやや後方に陣取っていた。だが、アグネスフライトと河内騎手の視線の先に、彼らの姿はなかった。
「アグネスフライトのよさ、直線での末脚を引き出す」
そう腹を決めた河内騎手にとって、敵は既に己のみだったのかもしれない。
『動き始めた時間』
レースの流れが動いたのは、大けやきの向こう側でのことだった。
「エアシャカールをマークしていたわけではない」
という河内騎手だが、河内騎手が当初から仕掛けどころに考えていたこの場所は、武騎手がエアシャカールの仕掛けどころに選んだ位置と、見事なまでに重なっていた。
彼らの勝利への思いが他の馬たちに伝播したのか、馬群、そして第67回日本ダービーは、終章へと向かって大きく動き始めた。
だが、最後方から徐々に押し上げていくアグネスフライトの気配を感じながら、河内騎手は、
「これまでで一番スムーズな競馬だ・・・」
と感じていた。第4コーナーではまだ馬群の真ん中にも達していなかったが、彼の目には、アグネスフライトのビクトリーロードがはっきりと見えていた。ダービーを勝ちたい。その思いは、直線を迎えていよいよ激しく燃え上がっていた。