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アグネスフライト列伝~一族の見た夢~

『飛翔』

 アグネスレディーの悲劇はあったものの、社台ファームで繁殖入りしたアグネスフローラは、一族の新たなる繁栄を託されて、トニービン、サンデーサイレンスといった期待の種牡馬と交配され続けた。しかし、結果はなかなか思うようには出なかった。サンデーサイレンスとの間に生まれた初子のアグネスタカオーは重賞戦線とは無縁のまま3勝にとどまり、次いでトニービンとの間に生まれたアグネスセブンオー、アグネスセレーネーはそれぞれ未出走、未勝利・・・。

 そんなアグネスフローラだったが、96年春には再びサンデーサイレンスと交配された。日本の馬産の歴史を変えた大種牡馬サンデーサイレンスは、95年に4歳クラシック戦線を迎えた初年度産駒から無敗の朝日杯3歳S馬フジキセキ、皐月賞馬ジェニュイン、日本ダービー馬タヤスツヨシ。オークス馬ダンスパートナーを輩出し、さらにこれからクラシックに臨む2年目産駒からも、既に前年末に朝日杯3歳Sを勝ったバブルガムフェローをはじめとするクラシックの有力候補たちを次々と輩出し、その存在感を圧倒的なものとしつつあった。この組み合わせからは、アグネスタカオーよりはるかに強い馬が生まれてもおかしくはない、否、生まれるはずだ・・・!

 翌97年3月2日、アグネスフローラは栗毛の鮮やかな牡馬を産み落とした。その子馬は、生まれながらに気品を湛え、貴公子然とした気高さを備えているように思え、社台ファームの人々を喜ばせた。

 アグネスフローラがようやく大物感のある子を出したと聞いた馬主の渡辺氏は、自らの冠名である「アグネス」に、「飛翔」を意味する”flight”を重ねて「アグネスフライト」という名前をつけることにした。「フライト」とは、渡辺氏が経営する印刷製版会社が発行している広報紙の名前でもあるというから、期待のほどが分かろうというものである。

 もっとも、社台ファームでの評価は、アグネスフライトがナンバー1・・・というわけにはいかなかった。彼と同期の馬の中で、後にエアシャカールと呼ばれることになる1頭の評価が非常に高かったためである。アグネスフライトは、2000年クラシック戦線において、その同期と死闘を繰り広げることになるのだが、そのような未来図など、当時の人々に走る由もない。

 やがて、アグネスフライトは、長浜博之厩舎へと入厩することになった。長浜師といえば、アグネスフライトの母アグネスフローラを桜花賞に導いた調教師であるとともに、アグネスレディーでオークスを制した長浜彦三郎調教師の息子でもある。一族と深い絆で結ばれた調教師のもと、後の日本ダービー馬の戦いの日々は、幕を上げようとしていた。

『宿命の絆』

 アグネスフライトを預かることになった長浜師にとっての最大の課題は、まずはアグネスフライトを無事にデビューさせることだった。というのも、長浜師が預かったアグネスフライトの2頭の兄姉(長兄のアグネスタカオーだけは、長浜厩舎に所属していない)・・・アグネスセブンオーとアグネスセレーネーは、いずれも脚の弱さのために、まともに走ることさえできないまま終わってしまったからである。母のアグネスフローラが6戦5勝、2着1回という完璧な成績を残しながら、1年足らずでターフを去っていったのも、屈腱炎という業病ゆえだった。

「この一族は脚が弱いので、仕上げには特に気をつけなければならない・・・」

 それが、一族の歴史とともに歩んできた長浜師のアグネスフライトに対する知恵だった。8月に入厩したアグネスフライトだったが、調整のピッチも上がってきた10月ころに一度脚部不安を発症すると、長浜師は脚の負担を軽くするために、プール調教に切り替えた。デビューの予定は大幅に遅れ、ついに3歳デビューを果たせないまま年が変わったが、脚に爆弾を抱えた一族の悲しい宿命を知る長浜師は、決して焦ってはいけないことを知っていた。アグネスフライトのデビューは、同期の中でも遅めといわなければならないが、それは彼の脚の爆弾を慮ってのことだった。

 年が改まり、2月の声を聞くころになり、ようやくアグネスフライトの出走態勢が整った。長浜師がアグネスフライトのパートナーに選んだのは、関西のベテラン河内洋騎手だった。長浜師がアグネスフローラを管理していたのと同じように、河内騎手もまた、かつて祖母アグネスレディーで1979年のオークス、アグネスフローラで90年の桜花賞を制した一族ゆかりの騎手だった。

『河内のオッサン』

 河内騎手・・・彼は、関西の騎手界で独特の地位を築いたベテラン騎手である。

 1974年に武田作十郎厩舎の所属騎手としてデビューした河内騎手は、初騎乗初勝利を飾ったのをはじめ26勝を記録し、翌75年にはロッコーイチで小倉大賞典を勝ち、早くも重賞初制覇を果たして「乗れる若手」として注目を集めていた。

 もっとも、実力派としては早くから認められていた河内騎手だが、彼の人気は若い女性から追いかけ回される・・・という性質の人気ではなく、馬券を握りしめた中年男どもに信頼される玄人好みのタイプで、しかも「若いのに顔がオッサン顔だ」などと言われて、1976年にヒットした「河内のオッサンの唄」と引っかけて、若くして「河内のオッサン」などとも呼ばれるようになっていた。もちろん歌に出てくる「河内」とは別に河内騎手のことではなく、大阪近辺の古い地名なのだが、そんなことはもはやどうでもよかった。

 そんな河内騎手が一気にスターダムに駆け上がったのは、1979年のことだった。この前年に、まだ3歳(旧齢)だったアグネスレディーと出会った河内騎手は、デビュー3戦目以降の彼女とずっと戦いをともにし、オークスで後続を2馬身半突き放す圧勝劇を見せた。アグネスレディーの79年の戦績は10戦1勝だったが、彼女はこの「1勝」のパフォーマンスによって最優秀4歳牝馬に選出されている。さらに、秋には人気薄のハシハーミットで菊花賞も勝った河内騎手は、クラシックの大輪を同時にふたつ得たことで、いよいよトップジョッキーへの道を歩み始めたのである。

 80年代に入ってからの河内騎手は、1985年、86年の連続リーディング・ジョッキーをはじめとする3度の全国リーディング獲得、ニホンピロウイナーでの短距離戦線の制圧、そしてメジロラモーヌでの牝馬三冠完全制覇など、まさに絶頂期を迎えた。

 そんな河内騎手が

「岡部さんにとってのシンボリルドルフのような存在」

と話したのが、アグネスフローラである。デビューの時から、使うレースやクラシックへの臨戦過程を長浜師と話し合いながら決め、走れば走るほど奥深さを感じさせてくれたというアグネスフローラは、アグネスレディーの娘という血統的背景もあって、「牝馬の河内」と呼ばれる河内騎手にとっても特別な馬だった。

 河内騎手の思い出の馬であるアグネスフローラは、オークスのレース中に故障を発生し、わずか6戦でターフを去っていった。だが、彼女が残した手応えは、河内騎手の中に生きていた。

「いつか、フローラの子でフローラよりもっと大きな仕事をしたい・・・」

 ひそかにそう願っていた河内騎手にとっても、長浜師からの騎乗依頼は渡りに船だった。

『希望への離陸』

 長浜師が河内騎手に声をかけたのは、新馬戦の1週間前だったという。この時調教で初めて騎乗した河内騎手の感想も、

「まだ仕上がりきっていないかな。動きがちょっと重い・・・」

というものだった。

 すると、案の定というべきか、新馬戦でのアグネスフライトの競馬は、河内騎手の予想以上にだらしないものだった。単勝150円の1番人気を集めたのは期待の外国産馬サザンスズカで、サンデーサイレンス×アグネスフローラという超良血馬のデビュー戦にあるまじき610円の2番人気にとどまったアグネスフライトは、後ろから数えたほうが早いという最後方からの競馬を余儀なくされてしまった。

「レディーやフローラはシャッといくタイプだったから、フライトもレースになれば少しはいけると思っていた」

という河内騎手だが、その期待はものの見事に裏切られてしまった。

 ところが、アグネスフライトが真価を見せたのは、第3コーナーを過ぎてからだった。第3コーナーを11番手で回ったアグネスフライトだったが、そこから外を衝いての加速力は、河内騎手を二度びっくりさせた。

 アグネスフライトは、第3コーナー過ぎからの強烈なまくりだけで、後続を4馬身突き放してしまった。この日の馬場は、朝からの雨によって「良馬場」という発表にもかかわらずかなり悪化していたが、出走馬中最速、それも2番目に速かった馬よりも0秒6も速い上がり3ハロンの豪脚を繰り出したアグネスフライトのスケールは、そうした不利をもどこかへ弾き飛ばしてしまった。

「外に持ち出してからは、エンジンが違ったね。これからが楽しみな馬だね」

 レース後の河内騎手は、記者たちに対してそう答えている。・・・こうして、アグネスフライトの翼は、天空へと向けて離陸したのである。

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