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アグネスフライト列伝~一族の見た夢~

『崩れ落ちた威信』

 アグネスフライトは、菊花賞の後、ジャパンC(国際Gl)に出走することになった。菊花賞との厳しい間隔が嫌われて、4歳の有力馬たちはなかなか集まらない傾向があった当時のジャパンCだが、この年は様子が違っていた。ダービー馬アグネスフライトだけでなく、皐月賞、菊花賞の二冠馬エアシャカール、同じ府中2400mのオークスを制したシルクプリマドンナ、NHKマイルCを勝っているイーグルカフェといった同世代、特に中長距離戦線についてはほぼオールスターと言ってよい面々が揃ったのである。さらに古馬陣営からは、2000年になってから6戦無敗で、残るジャパンC、有馬記念(Gl)で古馬中長距離Gl完全制覇を掲げていた世紀末覇王テイエムオペラオーを筆頭に、メイショウドトウ、ステイゴールドらが脇を固めて、前年の菊花賞馬ナリタトップロードが除外されるほどのメンバーとなった上、海外からも世界王者ファンタスティックライトが乗り込んできていた。

 そんな豪華な顔ぶれの中で、次代を担うアグネスフライトらにとって、そのレースはファンに実力を見せなければならない大切なレースだった。未来への期待を物語るように、彼はテイエムオペラオー、ファンタスティックライト、エアシャカールに次ぐ4番人気に支持された。

 ところが、その結果は見るも無残なものだった。後方待機のまま末脚不発に終わったアグネスフライトは、13着に敗れた。

 しかも、この日無惨に敗れたのは、アグネスフライトだけではない。アグネスフライトと同世代の馬たちのすべてだった。エアシャカールは14着、イーグルカフェは15着、そしてシルクプリマドンナは16着・・・・テイエムオペラオーによる世界制覇のはるか後方で、彼らの世代の馬たちの着順、そして威信は、すべて崩れ落ちた。

『斜陽』

 2000年最優秀4歳牡馬の栄冠は、皐月賞、菊花賞の二冠を達成したエアシャカールに輝いた。エアシャカールとの通算成績は3勝1敗だったものの、そのうち2勝が彼自身は敗れた神戸新聞杯とジャパンCでは、あまり意味はなかったようである。

 有馬記念を回避して2001年・・・新世紀の競馬に備えたアグネスフライトは、出直しを誓った京都記念(Gll)で1世代上の菊花賞馬ナリタトップロードを抑えたものの、900万下クラスの条件馬マックロウが繰り出すまさかの豪脚に屈した。マックロウの父は凱旋門賞馬トニービンであり、さらに全姉は二冠牝馬ベガという名血である。名血という意味では負けず劣らずだが、実績では圧倒的に勝るはずのアグネスフライトは、マックロウの2着に敗退した。かつて最後方からの末脚を武器としたアグネスフライトだったが、この日はマックロウにお株を奪われてしまった。

「外からあっという間に抜け出されてしまったものなあ。内容としては及第点なんだが」

 前年の秋以降、河内騎手の敗戦へのコメントが明確さを欠くものばかりとなっていったのは、何を意味していたのだろうか。あるいは、敗因があいまいな負けを重ねるアグネスフライトの戦績こそ、頭打ちとなりつつある彼の状況を示していたのかもしれない。

 名血対決に敗れたアグネスフライトは、産経大阪杯(Gll)に臨んだものの、10着と惨敗してしまった。それでも天皇賞・春(Gl)を目指すアグネスフライトだったが、直前になって右前脚が熱を持ち、検査の結果、屈腱炎と判明したため、長期の戦線離脱を余儀なくされた。祖母アグネスレディー、母アグネスフローラとも脚部不安で現役生活を諦めた一族にとって、それもまた血の宿命のひとつだった。

 アグネスフライトが敗れた産経大阪杯の2週間後、2001年の皐月賞が行われ、アグネスフライトの全弟アグネスタキオンが、4戦4勝で皐月賞を制した。

「牧場での印象は、フライトが貴公子なら、タキオンは野武士だった」(社台ファーム関係者)
「デビュー戦を見た時、兄は『怪物になるかもしれない』と思ったが、弟は『怪物だ』と思った」(長浜師)

という関係者の談話が物語るとおり、名馬としてのスケールに加えて兄にはない力強さを持っていたアグネスタキオンの人気は沸騰した。だが、そんなアグネスタキオンも、日本ダービーを前にして屈腱炎を発症し、引退した。弟がまさかの引退に追い込まれた後も、兄はあくまでもレースへの復帰を目指した。自らの存在感が薄れゆく、そんな時代の流れを留めえぬままに・・・

『別れの季節』

 アグネスフライトの復帰は、2002年の天皇賞・秋(Gl)まで遅れた。1年半ぶりの実戦が日本の中距離王決定戦というのは、いかにも厳しいローテーションと言わざるを得ない。案の定、天皇賞・秋でのアグネスフライトは18頭だてで16番人気の15着、次走のジャパンC(Gl)でも16頭だてで15番人気の16着という惨憺たる結果に終わった。

 この2戦でアグネスフライトの手綱を取ったのは、河内騎手ではなく勝浦正樹騎手、後藤浩輝騎手だった。河内騎手は、天皇賞・秋ではツルマルボーイに騎乗し、ジャパンC当日もアグネスフライトには騎乗しなかった。

 河内騎手は、アグネスフライトが戦線を離れている間に騎手引退を決意していた。翌03年2月に騎手生活を終える河内騎手とアグネスフライトの軌跡が一致することは、もうないと思われていた。

 しかし、河内騎手とアグネスフライトのコンビは、最後にもう一度だけ実現した。引退を決めた河内騎手が騎手として手綱を取る最後の重賞となる京都記念(Gll)に、アグネスフライトは参戦することになった。すると、長浜師の要請に答え、河内騎手もアグネスフライトへの騎乗を快諾したのである。

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