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メリーナイス列伝~戦友の死を乗り越えて~

 1984年3月22日生。2009年3月1日死亡。牡。栗毛。前田徹牧場(静内)産。
 父コリムスキー、母ツキメリー(母父シャトーゲイ)。橋本輝雄厩舎(美浦)。
 通算成績は、14戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、日本ダービー(Gl)、朝日杯3歳S(Gl)、
 セントライト記念(Gll)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『悲劇の世代に生まれて』

 サラブレッドを語る際によく使われるのが、生まれた年、すなわち「世代」による区別である。競馬では、完成した古馬と未完成の若駒を最初から一緒に走らせるのは不平等なことから、4歳(現表記3歳)の一定の時期までの間は同世代のみでその強弱を決し、その後に上の世代の馬たちとの世代混合戦に進むレース体系となっていることがほとんどである。そこで、日本競馬でサラブレッドを分類する場合、同じ年に生まれたサラブレッド全体をまとめて「○年クラシック世代」と呼ぶことが少なくない。

 また、「世代」という概念は、単に同じ年に生まれた馬の総称にとどまらず、一定の方向付けを持った評価として使われることもある。

「○年クラシック世代は古馬になってからも活躍した名馬が多く、レベルが高い」
「×年クラシック世代は世代混合Glでほとんど勝てなかったから、弱い」
「△年クラシック世代は、実力は普通だったけれど、ファンに愛された個性派の世代だった」

等の評価は、「○年クラシック世代」という呼び方が、そこに属する馬たちを語るために不可欠なグループとしての意味をも持っていることを物語っている。

 そうした数々の「世代」という概念の中で、ひときわ異彩を放っているのが、「1987年クラシック世代」である。

 この世代を強弱という側面から語る場合、「強い世代」に属することは、おそらく多くの競馬ファンが同意することだろう。1987年クラシック世代からは、87年のサクラスターオー、88年のタマモクロス、89年のイナリワンという3頭の年度代表馬を輩出している。全世代の実力が均等だとすれば、1世代に1頭ずつとなるはずの年度代表馬を3頭出したという事実は、それだけでこの世代のトップクラスの馬たちが高い実力を持っていたことの証である。他に3頭の年度代表馬を輩出した世代といえば、G制度が導入された84年以降にクラシックを戦った世代に限ると、他にひとつもない。また、競馬の歴史全体に遡っても、「TTG世代」のように極めて限られた例しかない。

 だが、この世代がファンに印象を残すのは、その強さより、むしろ儚さによってである。5歳(現表記4歳)になってから本格化したタマモクロス、6歳(現表記5歳)になってから中央へと転入したイナリワンは、クラシック戦線に出走していないが、この世代でクラシックに出走した有力馬たちは、その多くが悲劇と無縁ではいられなかった。皐月賞の1、2、3着馬が数年のうちにことごとくこの世を去ったことで、彼らは「悲劇のクラシック世代」とも呼ばれるようになるのである。

 そんな世代の中で、世代の頂点というべき日本ダービーを制したメリーナイスは、不思議な存在感を醸し出している。彼は「強い世代」のダービー馬であり、また朝日杯馬であるはずだが、その彼を「強いダービー馬」と見る向きはほとんどない。メリーナイスといえば、日本ダービーを6馬身差で圧勝し、映画「優駿」のモデルになったことで知られているが、そんな彼につきまとうのは、属する世代のイメージとはあまりに対照的な「イロモノ」としてのイメージだった。

 メリーナイスは、悲劇の世代に生まれ、悲劇のクラシックを戦いながら、その悲劇性とは無縁のままの競走生活を終えた。そして、かつて戦いをともにした戦友たちが生の歩みを止めた後も、流れ続ける時代とともに歩み続けた。今回のサラブレッド列伝は、そんな特異なダービー馬・メリーナイスの物語である。

『誕生』

 メリーナイスの生まれ故郷は、静内の前田徹牧場である。当時の前田徹牧場は稲作と馬産の兼業で、繁殖牝馬はアラブとサラブレッドを合わせても、5頭程度しかいなかった。中央競馬には生産馬を送り込むことすら滅多にない地味で目立たない個人牧場で、1984年3月22日、未来のダービー馬は産声を上げた。

 しかし、メリーナイスの血統は、小さな牧場なりの筋が通ったものだった。メリーナイスの母ツキメリーは、NHK杯勝ち馬マイネルグラウベンの姉であるとともに、自らも大井競馬で東京3歳優駿牝馬を制し、南関東の3歳女王に輝いた実績を持っていた。

 ツキメリーは、前田徹牧場の生産馬ではない。これほどの実績馬である彼女が前田徹牧場程度の小さな牧場に繋養される理由はないように思われるが、実際には、ツキメリーの馬主は以前から前田徹牧場と付き合いがあり、その縁でツキメリーは前田徹牧場に預託されることになった。前田徹牧場にやってきた時、ツキメリーは以前にいた牧場で種付けされたコリムスキーの子を宿していた。無論、まだ生まれてもいないその子こそが未来のダービー馬となることなど、誰もが知る由もない。

 メリーナイスの父・コリムスキーは、自分自身の成績は目立ったものではなかったものの、血統的にはノーザンダンサーの直仔であり、牝系も素晴らしいものだったことから、種牡馬としての供用開始当初は、それなりの人気を集めていた。

 ところが、実際に産駒がデビューしてみると、コリムスキー産駒からはなかなか活躍馬が出なかった。メリーナイスが誕生する前後の時期、種牡馬としてのコリムスキーの人気は、むしろ低落傾向にあった。

 コリムスキーとツキメリーという配合は、南関東の3歳女王を母に、産駒はダート馬の傾向を示す父をかけた配合であり、地方競馬に対して一定のアピール力を持つものだった。

 やがて生まれたのは、鮮やかな四白流星を持つ栗毛の牡馬だった。前田徹牧場では彼の行き先としてむしろ地方競馬を想定していたが、実際にはこの美しい栗毛の子馬は、地方競馬ではなく中央競馬に入厩することになった。

 彼を預かることになった橋本輝雄師は、美浦に厩舎を構えており、騎手時代にはカイソウでダービーを勝った経験もある人物だった。

『戦いの序曲』

 当初、メリーナイスの最大の特徴は、四白流星の栗毛という外見であると思われていた。競馬歴の浅いファンでもひとめで区別できるこの美しい馬は、血統的にはそこまで期待を集める存在ではなかった。

 しかし、このグッドルッキングホースが非凡なのが外見だけではないことに周囲が気づくまで、そう長い時間はかからなかった。牧場にいたころや入厩当初のメリーナイスの気性は、とても穏やかなものだった。だが、美しい馬体は、人間たちが追い始めると、その気配は一転して鋭い瞬発力と負けん気を発揮するようになった。馬体も成長するにつれて、充実したものとなっていった。

 メリーナイスの仕上がりは順調で、夏の函館では早々にデビューを飾った。その時には、メリーナイスは美浦の評判馬の1頭に数えられるようになっていた。

 函館で戦いの舞台に降りたったメリーナイスは、期待どおりにデビュー戦での勝ち上がりを果たした。ここで彼が破った相手には、後の名脇役ホクトヘリオスも含まれていた。

 デビュー勝ちを果たした後も、メリーナイスは3歳戦線を戦っていった。後から考えれば、メリーナイスが戦った3歳戦線の相手関係は、非常に充実したものだった。スタートで出遅れて4着に敗れたコスモス賞(OP)の勝ち馬は、後の阪神3歳S(Gl)馬ゴールドシチーだった。また、東京へ戻っての初戦となったりんどう賞でアタマ差差された相手は、天馬トウショウボーイを父に、三冠馬シンザンを母の父に持つ内国産馬の傑作サクラロータリーだった。

 こうした強敵たちとの戦いを通じ、メリーナイスは確実に強くなっていった。彼は続くいちょう特別を勝って2勝目を挙げると、東の3歳王者決定戦である朝日杯3歳S(Gl)へと駒を進めたのである。

『世代に先駆けて』

 朝日杯3歳S(Gl)でのメリーナイスは、単勝200円のホクトヘリオスに続く単勝360円の2番人気に支持された。メリーナイスとホクトヘリオスといえば、新馬戦で一度対決しており、この時はメリーナイスが勝利を収めている。しかし、メリーナイスに敗れたホクトヘリオスは、その後折り返しの新馬戦、函館3歳S、京成杯3歳Sを3連勝し、一度は遅れをとった評価を取り戻しつつあった。

 ただ、このレースの馬柱には、もし出走できていれば確実に1番人気となったであろうある馬の名前が欠けていた。それは、りんどう賞でメリーナイスに勝ったサクラロータリーである。

 サクラロータリーは、りんどう賞の後に府中3歳Sに出走し、名門シンボリ牧場が送り込んだ大器マティリアルを破って、無傷の3連勝をレコードで飾った。

「今年の朝日杯はこの馬で決まった」

とも噂されたサクラロータリーだったが、その後骨折によって戦線を離脱し、朝日杯に駒を進めることはできなかったのである。

 本命馬が消えた朝日杯は、メリーナイスとホクトヘリオスの一騎打ちムードとならざるを得なかった。メリーナイスの鞍上・根本康広騎手は、どうすればいかにホクトヘリオスに先着するかを考えた。そして、ホクトヘリオスが追い込み一手の不器用な馬であることを見越して、道中はとにかく中団、ホクトヘリオスより前でレースをする作戦を採ることにした。ホクトヘリオスが後ろにいる間に前方へと進出し、直線で早めに先頭に立つことで、直線に入る前にホクトヘリオスに可能な限り差をつけておき、瞬発力に優れたホクトヘリオスが届かない展開に持ち込むためだった。

 そうすると、根本騎手の作戦は、見事に当たった。直線に入るとホクトヘリオスが猛然と追い込んできたものの、早目に進出していたメリーナイスには1馬身半届かなかったのである。メリーナイスは、同世代の馬たちに先駆けて、見事Gl馬となった。

『幻の朝日杯馬』

 こうしてGl馬となったメリーナイスだが、その一方で、この勝利は「サクラロータリーの故障で転がり込んだ」とみられることも避けられなかった。

「サクラロータリーが出走していれば、結果はどうなっていたか・・・」
「サクラロータリーこそ実力ナンバーワン」

 そうした声もあがっていたが、メリーナイスにはそれらを払拭するすべはない。あるとすれば、それはサクラロータリーと再戦し、そして勝つよりほかに道はない。

 しかし、実際にはメリーナイスにその機会が与えられることはなかった。サクラロータリーは、故障の回復が思わしくなく、ついに3戦3勝、不敗のまま引退してしまったのである。

 血統的にいうならば、トウショウボーイ×シンザンの血を持つ内国産馬の星が「ただの早熟馬でした」とはなかなか思われない。素晴らしい血統を持つスター候補生の引退は、多くのファンを残念がらせ、彼を惜しむ声は彼のことを「幻の朝日杯馬」と呼ぶという形で表れた。「幻の朝日杯馬」の前では、「現実の朝日杯馬」の影はその分薄くならざるを得なかった。

 メリーナイスがサクラロータリーの故障によって、朝日杯をより楽に勝てたことは否定できないが、その引退によって後々まで、朝日杯3歳Sの栄光をサクラロータリーの幻に支配されることになってしまったことも事実である。果たしてサクラロータリーの故障と引退は、メリーナイスにとって幸運だったのだろうか、不運だったのだろうか。

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