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メリーナイス列伝~戦友の死を乗り越えて~

『ターフに別れを告げて』

 結局、この日の函館記念は、メリーナイスの生涯最後のレースとなった。函館記念後のメリーナイスは、天皇賞・秋(Gl)に向けて調整がなされていたものの、調教中に骨折してしまい、引退を余儀なくされたのである。

 メリーナイスには、もともと脚部不安がつきまとっていた。古馬になってからは、その症状は悪化する一方で、大レースに向けた調整も、予定どおりには進められなくなっていた。彼の脚が長く厳しい戦いに軋みをあげる中、それまでは騙し騙し走り続けてきたメリーナイスだったが、その爆弾は、ついに爆発した。5歳半ばでの突然の引退は、「燃え尽きた」というにはあまりに早すぎるものだった。

 引退後のメリーナイスは、ダービー馬として種牡馬入りすることになった。・・・だが、彼としのぎを削ったライバルたちは、ひとあし早くメリーナイスが去っていった後も、なおもターフで戦い続けた。そのライバルたちとは、マティリアルとゴールドシチーだった。

『さらば戦友よ ―マティリアル』

 かつてメリーナイス、サクラスターオーのライバルとしてクラシック戦線の主役の1頭に数えられたマティリアルだったが、古馬になってからは、かつての面影は完全に過去のものとなっていた。皐月賞、ダービーで1番人気に支持された大器は、スプリングS優勝の後、勝利から完全に見放されてしまったのである。

 それでもファンは、スプリングSで彼がみせた豪脚の再現を夢見て、マティリアルの単勝を買い続け、彼の人気は近走の実績以上のものであり続けた。だが、マティリアルはその人気と期待に、なかなか応えることができなかった。マティリアルは、出走するたびに人気を裏切り続けた。いつしか彼の鞍上からは、主戦騎手だった岡部幸雄騎手の姿も消えていた。

 そんなマティリアルがようやく復活の兆しを見せ始めたのは、6歳になってからのことだった。復帰したマティリアルの戦績は4着、4着、2着と、安定した数字を残すようになった。上向き気味となった着順を受け、ついに京王杯AH(Glll)での彼は、1番人気に支持された。この日の鞍上も、かつての主戦騎手だった岡部騎手が、久々に手綱をとることになった。

 久々にマティアルの鞍上へと帰ってきた岡部騎手は、思い切った競馬をすることにした。それまでの後方一気の競馬をを捨て、好位置につけた上で第3コーナー過ぎに先頭に立つ積極策を採ったのである。スプリングS以降は最後方待機が指定席となっていたマティリアルの「奇襲」に、場内は大きくどよめいた。

 そして、マティリアルは2年半ぶりに勝った。アドバンスモアの追撃を凌ぎ、先頭のままゴールしたのである。こうしてマティリアルは、得意の戦法、・・・そしてもっと大切なものを捨てて、最後の勝利を掴み取った。ゴール板の前を駆け抜けたマティリアルのガラスの脚は、砕け散っていたのである。こうしてマティリアルは、サクラスターオーから遅れること1年半で、同じ世界へと旅立っていった。

『戦いに生きて ―ゴールドシチー』

 四白流星尾花栗毛、メリーナイス以上に目立つ風貌でファンも多かった西の3歳王者ゴールドシチーは、クラシック三冠でもそれぞれ2着、4着、2着と好走を続けた。しかし、そんな彼もついに勝利を得るまでには至らず、古馬になってからはGll3着が2回あるものの、勝利を積みあげることはできななかった。6歳の宝塚記念で10着に敗れたゴールドシチーは、その1戦を最後にターフを去ることになった。

 しかし、いくらGl勝ちがあるとはいっても、ゴールドシチーはもともと血統的な魅力が薄いとされていた上、通算成績は20戦3勝で、4歳以降は一度も勝っていない。そんなゴールドシチーに種牡馬としてのオファーはなく、彼はついに種牡馬になることができなかった。

 もっとも、サラブレッドにとって、種牡馬入りが必ずしも幸せにつながるとは限らない。種牡馬になってはみたものの、ろくに繁殖牝馬を集められないまま消えていく馬は、決して少なくない。そのことを考えると、ゴールドシチーが乗馬として引き取られることになったからといって、それ自体が不幸なことだということはできないだろう。

 ゴールドシチーは、乗馬として宮崎競馬場で余生を過ごすことになった。もともとゴールドシチーの見映えの良さは抜群で、競走馬になれなかったら乗馬として東京ディズニーランドに寄付する、という計画まであったほどだった。戦場を去った後の彼は、乗馬として、戦いとは無縁の静かな時の流れに身を任せるはずだった。

 だが、彼の時計が時を刻むのをやめるのも早かった。ゴールドシチーもまた、放牧中の事故で、右前脚に致命的な骨折を負ってしまったのである。

 ゴールドシチーを担当していた厩務員が事故に気付いたとき、彼は目に涙を浮かべながら三本脚で立っていたという。この時の彼は、獣医にももはや手の施しようがなく、安楽死の措置を施すしかなかった。

 事故の原因はついに分からなかったものの、彼の激しい気性が事故を招いた、といわれている。ゴールドシチーはもともと当歳時からやんちゃな気性で、その性格こそが競馬場での勝負根性になっていた。その性格が、こと引退後に関しては、ゴールドシチーの新環境への適応の邪魔となってしまったことは否定できない。気性の激しさゆえに、ゴールドシチーは戦場を離れた平和な土地では、生きることすらかなわなかったのである。

 こうして、サクラスターオーからは2年、マティリアルからも半年遅れただけで、ゴールドシチーの時計も時を刻むことをやめた。メリーナイスは5歳時にサクラスターオー、6歳時にマティリアル、そして7歳時にゴールドシチー、と1年に1頭ずつ、ライバルを失っていった。

『今も流れる時代とともに』

 しかし、サクラスターオー、マティリアル、ゴールドシチーたちの時が止まった後も、ダービー馬メリーナイスの時は流れ続けた。

 メリーナイスは、種牡馬としてマイネルリマーク(共同通信杯)、イイデライナー(京都4歳特別)などの重賞馬を輩出し、そこそこの成功を収めた。また、彼自身は芝でしか走ったことがなかったが、産駒からはダートで活躍する馬を出しており、一時は使い勝手のよい種牡馬としてある程度の人気も集めていた。近年の内国産種牡馬が大苦戦する中で、メリーナイスの種牡馬成績はむしろ健闘の部類に入るものだった。

 しかし、そうした評価がされた期間は、そう長くはなかった。毎年新しい種牡馬が次々と導入される現実の中で、手堅いだけではやはり生き残ることはできない。彼は、種牡馬が生き残るためのもうひとつの条件である大物の輩出は果たせなかった。・・・そして彼の人気は次第に、そして確実に下降し、1999年を最後に種牡馬を引退することになった。その後のメリーナイスは、熱心なファンの協力もあって功労馬として余生を送り、2009年3月1日に死亡するまで、穏やかな時を過ごしたという。

 メリーナイスのダービー制覇の時から、決して短くはない時が過ぎた。悲劇の世代に生まれ、多くのライバルたちの生と死を見守り続けたメリーナイスは、時その間時代の証人として、激しく移り変わる競馬界を見守り続けてきた。彼とともにクラシック戦線を戦った馬たちの多くは、時代の移ろいを物語るように、早々に散っていった。そんな中で、厳しい競走馬生活、そして種牡馬としての馬生を経て天寿を全うしたメリーナイスは、サラブレッドとしての老境を迎えた時、果たして何を思い、何を願ったのだろうか。

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