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メリーナイス列伝~戦友の死を乗り越えて~

『流れ星、消えた』

 レースはやがて、勝負どころの2周目、第4コーナーへと入っていった。おのおのの馬たちが少しでも有利な位置取りを占めようと、騎手たちの激しい駆け引きが繰り広げられる。・・・そして、サクラスターオーも内を衝こうと動いたその時、悲劇は起こった。サクラスターオーが突然馬群から置いていかれ、やがて第4コーナー付近で競争を中止する。・・・故障発生。馬群の後ろから走ってきたメリーナイスは、立ち尽くすライバルを横目に見ながらひたすらに走り続けた。

 レースの後、サクラスターオーに下された診断は、最悪のものだった。左前脚腱断裂、指関節脱臼。こうしてメリーナイスがサクラスターオーに雪辱する機会は、永遠に失われたのである。

 サクラスターオーの故障は、本来ならば直ちに予後不良とされるべき重傷だったが、何とかサクラスターオーに生きていてほしい、という関係者の哀しい愛情は、それを許さなかった。こうしてサクラスターオーの闘病生活が始まった。

 しかし、関係者の必死の努力が実を結ぶことはなかった。壮絶な闘病生活も空しく、サクラスターオーの病状は悪化するばかりだった。脚部に負担がかからないよう体重を落とした結果、有馬記念時に450kgあった馬体が、最後には約250kgまで落ちていた。それでも故障した箇所をかばっては他の箇所を痛めるという悪循環が続き、最後にはにっちもさっちも行かなくなった。そんな悲劇の二冠馬に、安楽死の措置がとられたのは、翌年の桜が散る季節を過ぎたころのことだった。わずか1年2ヶ月の間、ターフを流れ星のように駆け抜けた二冠馬は逝き、メリーナイスが目標とすべき相手も消えてしまった。

『主役交代』

 同じクラシック戦線を戦い、彼らの世代の雄と呼ばれたサクラスターオーが去った後、彼らの世代の新しいエースの役割への期待は、メリーナイスへと集まることになった。メリーナイスはサクラスターオーとの直接対決に勝ったことがないとはいえ、朝日杯とダービーを制したほどの馬であり、特にダービーでは6馬身差の圧勝を飾った馬である。実績的にはサクラスターオーと並ぶ「世代の双璧」といえる彼に期待が集まるのは当然であり、彼はそうした期待に応えなければならない地位にいた。

 だが、古馬になってからのメリーナイスは、そうした期待に応えるどころか、道を見つけられないままひたすらに迷走を続けるのみだった。

 メリーナイスの年明け初戦は、当時は2月に行われていた目黒記念(Gll)に決まった。当時の目黒記念はハンデ戦であり、メリーナイスには当然のように1番人気と59kgのトップハンデが与えられた。しかし、レースでは重い斤量が堪えたのか、メリーナイスは7kgのハンデ差を生かしたメジロフルマー(メジロライアンの半姉)の逃げをとらえきれず、逃げ切りを許しての2着に終わった。

 この時期、メリーナイスと同じ明け5歳世代から、1頭の新星が現れつつあった。前年のクラシックの時期は下級条件馬にすぎず、クラシックの舞台には立つことすらできなかった芦毛馬が、メリーナイスの没落と反比例するかのように、破竹の快進撃を開始したのである。前年のクラシック戦線ではメリーナイスと同じ舞台に立つことすら許されない存在だったその馬が、まるで生まれ変わったかのように連勝に次ぐ連勝街道をひた走っている。その馬の勢いは、重賞戦線へ突入してもとどまるところを知らず、ついには鳴尾記念(Gll)、京都金杯(Glll)、阪神大賞典(Gll)と重賞3連勝を達成するに至った。その驚異の上がり馬とは、後に天皇賞春秋連覇を達成する「白い稲妻」タマモクロスだった。

 それに対してメリーナイスは、熱発などで調整が遅れ、ステップレースを使えないまま天皇賞・春(Gl)へ直行せざるを得なかった。だが、仕上げが不充分なままで臨む羽目になったメリーナイスが、日の出の勢いのタマモクロスにかなう道理はなかった。タマモクロスが2着に3馬身差の圧勝でGl戴冠を果たしたのに対し、メリーナイスは後方のまま、見せ場も作れないまま無惨な14着に大敗してしまった。新時代の主役が誰なのかは、もはや誰の目にも明らかだった。

『新しき力の前に』

 メリーナイスは天皇賞・春(Gl)に惨敗した後、心身ともにリフレッシュするため、笹針を施した上で休養に入ることになった。

 メリーナイスが復帰したのは、真夏の函館記念(Glll)でのことだった。函館記念は、本来のレースの格からいえば一流馬の出るレースとはいえない。だが、この年だけはなぜか様相を異にしており、メリーナイスの他に、2世代上のダービー馬シリウスシンボリ、さらには前年の二冠牝馬マックスビューティも出走馬としてその名を連ねていた。

 しかし、この日の函館記念の主役となるべき馬は、2頭のダービー馬でもなければ、二冠牝馬でもなかった。この日1番人気に支持されたのは、未完の大器と噂される4歳馬サッカーボーイだったのである。

 サッカーボーイは、前年の阪神3歳Sで後続を8馬身ぶっち切った時点では、

「来年の皐月賞、ダービーはこの馬で決まりだ」

とたいへんな評判になった。だが、このあまりにも才気にあふれた若駒は、様々な不運もあって、皐月賞は回避、ダービーは惨敗という不完全燃焼の結果に終わっていた。

「このままでは終われない」

 そんな陣営の思いに突き動かされたサッカーボーイは、再起を目指して出走した前走の中日スポーツ杯4歳S(Glll)で皐月賞馬ヤエノムテキを破って、見事な復活を遂げた。かつて「凱旋門賞への遠征もある」といわれた未完の大器が、いよいよ本格化してベールを脱ごうとしている。ファンの注目は、メリーナイスやシリウスシンボリの復活よりもむしろそちらに向けられていた。

『ダービー馬の役割』

 函館記念のレースは、最初の1000mが57秒7というハイラップを刻んだ。前があまりに速くなると、逃げ馬や先行馬が総崩れになり、差し馬や追い込み馬が有利になる、というのが一般的である。後方待機を決め込んだメリーナイスにとっては、まさに望むところの展開だった。サッカーボーイが3コーナー付近で早くも進出を開始し、4コーナーで先頭に立ったのに対し、メリーナイスは直線一気の末脚に勝負を賭けていた。

 ところが、サッカーボーイのスケールは、根本騎手の想像とはケタが違っていた。必ず捕まえられる・・・そう信じて追い込んだメリーナイスは、結果的には前のサッカーボーイが止まらなかったことから、その差を逆転するどころか、5馬身差をつけられたままの2着に終わってしまったのである。

 メリーナイスのこの日のコンディションをみると、馬体重は天皇賞・春より24kg増えており、さらに背負った斤量も59kgだった。メリーナイスの走破タイムである1分58秒6というタイムも決して恥じるべきものでもなかった。・・・だが、勝ったサッカーボーイの勝ちタイムが1分57秒8で、当時の芝2000mの日本レコード(1997年にゼネラリストによって破られた)だったのでは、あまりにも分が悪かった。「ダービー馬」という金看板を背負って新世代との北の地での決戦に臨んだメリーナイスだったが、ケタ違いの圧勝劇の前に、またも名馬の引き立て役に終わってしまった。それが、ダービー馬たるメリーナイスの悲しい役回りだった。

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