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アグネスフライト列伝~一族の見た夢~

『挑戦権を得るために』

 若草Sの翌日、東の中山競馬場で行われた皐月賞(Gl)では、エアシャカールがダイタクリーヴァをクビ差抑えて、クラシックの一冠目を手にした。社台ファームでの育成時代にアグネスフライトらを抑えて「世代一番の大物」とされていた大器は、評判にたがわぬ強さを示していた。

「ダービー向きと思っていたこの馬で、皐月賞が獲れました。こうなると、当然もっと大きなところも視野に入ってきますね・・・」

 弥生賞でエアシャカールを抑えて優勝し、皐月賞の本命と目されていたフサイチゼノンが故障で戦線を離脱したという幸運もあったが、それを単なる幸運とは感じさせない強い競馬で勲章を手にしたエアシャカールの鞍上・武豊騎手は、河内騎手から遅れること13年、同じ武田作十郎厩舎からデビューした弟弟子だった。とはいえ、いまや日本競馬随一の騎手となり、98年のスペシャルウィークで悲願のダービー制覇を果たすや、翌99年にはアドマイヤベガでダービー連覇を成し遂げた武騎手の視線の先には、前人未到のダービー3連覇、そして「三冠」の野望があった。ダービー後にキングジョージ&クイーンエリザベスS(国際Gl)への出走もささやかれる武騎手とエアシャカールのコンビこそ、彼らの世代の王者にほかならなかった。

 日本ダービーで二冠達成を目指すエアシャカール、そしてダービー3連覇を狙う武騎手への挑戦権を得るために、アグネスフライトと河内騎手は、京都新聞杯(Glll)へと出走することになった。

『夢見る資格』

 京都新聞杯は、長らく菊花賞の最大のトライアルレースとして秋に行われてきたが、番組の改定によって春に移行し、廃止された京都4歳特別(当時Glll)に代わるレースとして位置づけられたばかりのレースである。本賞金が1350万円のアグネスフライトがダービーへの出走を確かなものとするためには、本番までが中2週の厳しいローテーションになったとしても、ここで2着以内に入って本賞金を加えることが必要だった。かつての京都4歳特別は「関西の秘密兵器」・・・毎年のようにダービー直前に現れては、本番でこける代名詞となっていたフレーズを量産するレースという印象が強かったが、この時期にはようやく、西高東低の流れの中で、ダービーに直結するレースとして注目されるようになっていた。

 ただ、京都新聞杯の前には、ダービーへの出走を念頭において

「2着でもいい」

と言っていた渡辺氏に対し、長浜師は

「2着なら、ダービーでは用はありません・・・」

と厳しい姿勢を示していたという。この日1番人気に支持されていたのは、皐月賞5着馬のヤマニンリスペクトである。後のジャパンC馬タップダンスシチーも出走していたとはいえ、当時は本格化前で、さほどの注目も集めていなかった。

「若葉Sの結果から、完全に信頼はできない・・・」

 現時点でのアグネスフライトに、そんなつかみきれなさを感じていた長浜師は、競馬を単なる夢ではなく現実としてとらえる調教師という立場ゆえに、この相手関係ならば一蹴する強さを見せなければ、ダービーを勝つことなど、夢見ることさえできないと感じていた。

『見えてきた目標』

 京都新聞杯でアグネスフライトが見せたのも、もはや恒例となった感のある出遅れと、最後方からの競馬だった。追っつけても追走に苦労するアグネスフライトだったが、河内騎手はいまさら焦りはしなかった。アグネスフライトの能力を最大限引き出せる乗り方とは、アグネスフライトのあるがままの競馬であることを、彼は知っていた。

 それまでは向こう正面か、第3コーナー過ぎからまくる競馬をしてきたアグネスフライトだったが、この日は向こう正面の淀の上り坂、そして第3コーナーを過ぎた下り坂でも、その瞬発力はなかなか解き放たれない。若葉Sでの末脚不発の惨敗・・・そんな記憶も脳裏をかすめた第4コーナー、アグネスフライトの末脚は、またも甦った。

 直線で大外に持ち出した時、アグネスフライトはまだ後ろから3頭目の位置にいた。だが、直線に入ったアグネスフライトが見せたのは、弾けるような豪脚だった。懸命にゴールを目指すのは他の馬たちも同じだったが、そのライバルたちが止まって見えるほどだった。

 アグネスフライトがゴールした時、彼はそれまでにすべての馬を抜き去っただけでなく、さらに2着のマルカミラーに3馬身差をつけていた。

「2着なら、ダービーでは用はない」

 そう言っていた長浜師をしても、この日アグネスフライトが見せた鋭い末脚と結果、そして勝ちタイムが2分を切ったその競馬は、ダービーを意識するに足りるものだった。道は、はっきりと見えてきた。

『それぞれの理由』

 京都新聞杯を鋭い追い込みで制したことにより、アグネスフライトはダービーの有力候補の1頭に数えられるようになった。皐月賞には間に合わなかったものの、若草S、京都4歳特別と叩いてダービーで好走した馬といえば、97年のダービー2着馬シルクジャスティスがいる。極端な追い込みという同じ脚質で一気にスターダムにのし上がり、ついにはその年の有馬記念(Gl)を制した先達の存在は、アグネスフライト陣営にとって心強いものだった。

 無論、彼らの前途は生易しいものではない。最大の敵は皐月賞を制したエアシャカールであり、長浜師は

「エアシャカールは強い。あの馬にはかなわないかもしれない」

と思っていたという。

 しかし、アグネスフライトを取り巻く人々には、ダービーに賭ける「理由」があった。アグネスフライトが、アグネスレディー、アグネスフローラと続く母子2代のクラシックホースの血脈から生まれたことは、以前に述べたとおりである。アグネスレディーから積み重ねられた時は、アグネスフライトともに日本最高のレースへと挑む彼らのそれぞれの思いを熟成させ、かけがえのないものとしていた。

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