アグネスフライト列伝~一族の見た夢~
『夢の重み』
1979年にオークスを制したアグネスレディーは、長浜師の父である長浜彦三郎師が管理していた。名種牡馬リマンドを父に持つ彼女は、1700万円という当時の牝馬としては破格の値段がついており、彼女を渡辺氏に勧めた長浜彦三郎師自身、後に
「まさか本当に買うとは思わなかった」
と驚いていたくらいだった。
当時の渡辺氏は、妻を亡くしたばかりだった。妻が残した2人の娘に、自分が何をしてやれるか。それを考えた時に思いついたのが、
「子供たちと馬とで、楽しく暮らしていこう」
ということだった。71年に馬主資格を取得した直後は冠名をつけていなかった渡辺氏が、娘たちが大好きだった「アグネス・チャン」にちなんで、自分の所有馬に「アグネス」の冠名をつけるようになったのは、このころのことである。
「アグネス」の名前が初めてクラシック戦線に躍ったのは、アグネスレディーがオークスを勝つ1年前、1978年のことである。二分久男厩舎に所属したアグネスホープは、デビュー戦から毎日杯を含む4連勝と底を見せぬまま、皐月賞へと臨んだ。皐月賞では6着、NHK杯では10着と大敗して人気を落としていた彼は、12番人気まで支持を落とした日本ダービーで、8戦7勝の皐月賞馬で1番人気に支持されたバンブトンコートを撃破し、さらにサクラショウリをあと半馬身まで追いつめる2着に健闘した。
その翌年には、長浜彦三郎師に預けたアグネスレディーで見事オークスを制したのだから、この時点までは、渡辺氏は「府中2400m」のクラシックに縁が深いと思われた。
だが、渡辺氏の所有馬たちは、それ以降しばらくの間、「府中2400m」の大レースの好走から遠ざかる。「アグネス軍団」の馬からは、その後も81年にエリザベス女王杯を勝ったアグネステスコが現れたものの、春にまださほど注目されていなかった彼女は、オークスでは11番人気の8着に敗れている。その後はアグネスレディーの初子で欧州三冠馬Mill Reafを父としたミルグロリーが調教中の故障によって引退したショックで、渡辺氏が持ち馬を減らしたこともあり、「アグネス軍団」自体の勢いが沈静化してしまった。88年に長浜彦三郎師が亡くなり、代わって長浜博之師が長浜厩舎を引き継いだころから、再びGl戦線で名前を見かけるようになったアグネス軍団だが、こと「府中2400m」では、90年に無敗の桜花賞馬としてオークスに挑んだアグネスフローラがライトカラーの2着に敗れて生涯で唯一の敗戦を喫し、94年にはアグネスパレードがチョウカイキャロルの3着に終わっている。
母を亡くした娘たちのために「アグネス」の名を与え、アグネスレディー、アグネスフローラ母子らを通して競馬への傾斜を深めていった渡辺氏と、やはり調教師だった父の仕事を受け継ぎ、かつて父が管理してオークスを制したアグネスレディーの最高傑作アグネスフローラを預かりながら、オークスで2着に敗れ、母子2代オークス制覇を逸した長浜師にとって、思い出の馬アグネスフローラの子で挑む府中2400mの最高峰・・・日本ダービーは、特別な意味を持っていた。彼らは、自分たちの夢を、たった1人の水先案内人である河内騎手に託した。彼らは、かつてアグネスレディー、アグネスフローラの主戦騎手を務めた関西の名手にとっても、「日本ダービー」が彼らに劣らぬ、否、凌駕する大きな意味を持っていることを知っていたからである。
『叫ぶ魂』
1974年にデビューしていきなり26勝を挙げ、翌75年には重賞制覇、そして79年にはアグネスレディーに騎乗し。24歳の若さでオークスを勝った河内騎手は、その後も多くの名馬と巡り会い、数々の実績を残した。だが、そんな関西の名手をしてまったく縁がなかったのが、日本ダービーだった。
河内騎手のダービー初騎乗は、アグネスレディーでオークスを勝ったその翌週にトウホクハヤテに騎乗した79年のことである。この日は21番人気の25着で「回ってきただけ」だった河内騎手だったが、その後、ダービー当日は毎年のように東京での騎乗依頼を受け、21年間のうち16度にわたって、日本ダービーに参戦してきた。
その間の彼に、ダービー制覇のチャンスがなかったわけではない。彼が騎乗した16頭のうち3頭は、堂々たる日本ダービーの1番人気に支持されている。86年のラグビーボール(4着)、88年のサッカーボーイ(15着)、89年のロングシンホニー(5着)・・・。彼らはいずれも「断然の大本命」というより押し出された1番人気というクラスだったとはいえ、河内騎手はそのことごとくで敗れてきた。
特に、90年に5番人気のメルシーアトラで11着に敗れた後の日本ダービーは、河内騎手にとって、まさに鬼門となった。その後の9年間で騎乗機会がなかったのは1度だけだったが、その間に最も人気を集めたのが9番人気、というのではいかんともしがたい。
「年が経つとともに、ダービーに勝ちたいという気持ちが強くなってきた・・・」
そう語る河内騎手の思いを物語るように、96年には9番人気のメイショウジェニエで3着、98年には14番人気のボールドエンペラーで2着という人気薄での爆走を演出しても、勝利にはどうしても手が届かない。
日本ダービー制覇にすべてを賭けた騎手といえば、柴田政人騎手が有名である。93年にウイニングチケットに騎乗して悲願を果たした柴田騎手は、その時44歳になっていた。では、河内騎手はどうか。してきたかつて24歳の若さでオークスを制した若武者も、幾星霜を経て気がつけば45歳になり、ダービーを制した時の柴田騎手よりも年上になっていた。そんな彼が直面していたのは、日本ダービーへの特別な思いを持つ前は騎乗する機会があった有力馬に、特別な思いを持つようになってからはなぜか恵まれなくなり、人気以上に好走させても頂点には届かなくなる・・・という皮肉な現実だった。
「ダービーを勝てたら騎手を辞めてもエエ、いうのは別に政人さんだけやない。自分も辞めてもエエと思ってるんやけどね」
この言葉は、自分に残された騎手生活が長くないことを感じ取っていたからこその、河内騎手の心からの叫びだった。
『ただひとつの思い出のために』
ダービーを前にした河内騎手は、アグネスフライトについて聞かれて
「良馬場でやりたいね。あとは、運が回ってくれば、だろうな・・・」
と話している。これまで4戦3勝のアグネスフライトに対する一般的な評価は、いまだ底は見えておらず、またサンデーサイレンス×アグネスフローラという血統ゆえに「穴馬」というには不気味すぎたが、その一方で若葉Sの惨敗が物語るような脆さを抱え、一線級との対決もないという未知数の存在だった。
だが、河内騎手は、17度目のチャンスに、アグネスフライトに賭けていた。ダービー前のダービーフェスティバルで
「思い出のダービーは?」
と聞かれた河内騎手は、
「今年のダービーを思い出にしたい」
と答えている。河内騎手は、独占インタビューの申し込みをすべて断り、ダービーの日に備えた。
「ダービーフェスティバルだって、出るのを断りたかった・・・」
そんな河内騎手は、アグネスフライトという有力馬で臨むことができるただ一度の機会で悔いを残さないよう、ダービーの前のレースも、あえて依頼を受けなかった。ダービーになかなかいい思い出を持てなかった45歳のベテラン騎手にとって、これは最後のチャンスかもしれない。河内騎手は、背水の陣を敷いていた。