メジロブライト列伝~羊蹄山に季節は巡り~
『北陸の廃線特急』
だが、そんなメジロブライトは、一部のGl馬がそうであるような、生まれた時から将来の大成を感じさせる存在だったわけではなかった。むしろ、馬体に目立った点はなく、その動きも鈍重で、同期の中でも「劣等生」に属していた。
メジロ牧場の所有馬の馬名は、毎年牡馬、牝馬ごとのテーマによって統一されることになっている。メジロブライトの世代は、牡馬はすべて鉄道関係の名前、牝馬は犬の名前をつけられることになった。こうして「メジロブライト」の馬名も決まったわけだが、この馬名は、一部に誤解されているように新幹線「ひかり」からとられたものではなく、特急「かがやき」にちなんだものだった。
特急「かがやき」は、当時、日本海に沿って福井・金沢~長岡間をつなぎ、上越新幹線と接続して首都圏と北陸地方との交通を担っていた。とはいえ、「かがやき」が当時から、全国の鉄道の中でもかなりマイナーな特急列車だったことは否めない。大種牡馬サンデーサイレンスと三冠牝馬メジロラモーヌとの間に産まれ、誕生時から期待を集めていたメジロディザイヤーが、開通して間もない新幹線「のぞみ」にちなんで名前をつけられているのと比べると、何とも慎ましやかな名前だった。
しかも、新時代の旗手として期待を集めた「のぞみ」と違い、特急「かがやき」は1997年3月、くしくもメジロブライトがクラシック戦線へと乗り込む直前に、廃止されることが決まった。消滅が決まった北陸の廃止特急…それが天皇賞馬の競走馬としての出発点だった。
メジロブライトは、やがて栗東の浅見国一厩舎へと入厩したものの、そこでの評価もろくなものではなかった。併せ馬をすればいつも相手に置き去りにされた。ゲート練習をさせるといつも出遅れ、ゲート試験に落ちたこともあった。競走馬をほめるのに「テンよし、中よし、しまいよし」という言葉がある。しかし、当時のメジロブライトは「テンダメ、中ダメ、しまいダメ」と周囲を嘆かせていた。廃止が決まった特急列車の名前にふさわしい戦績しか残せないメジロブライトに周囲は失望し、
「『かがやき』の廃止とブライトがあがる(引退する)のはどっちが早いか」
という意地悪な声すらも上がるほどだった。
『衝撃のデビュー戦』
メジロブライトの評価は、デビューが直前に迫る時期になっても、いっこうに上がる気配がなかった。メジロブライトのデビュー戦自体は、出世レースとして知られる函館1800mの新馬戦に決まった。しかし、血統が目立つわけでもなく、入厩後の評判も散々なこの馬に注目するファンなど、ほとんどいなかった。デビュー戦がこのレースに決まった理由は、
「短い距離だと、スピードがないから他の馬についていけない。長い距離なら、追走もいくらか楽だろう」
という投げやりなものだった。
メジロブライトの新馬戦の単勝オッズは、5890円をつけた。6頭だての6番人気である。この日は5番人気の馬すらも単勝が2000円を切っており、メジロブライトの人気のなさは頭ふたつもみっつも抜けていた。
そんなメジロブライトだが、このレースを勝った時には、競馬界で少し話題になった。…といっても、その話題はメジロブライトの勝利自体ではなく、その勝ちタイムによるものだった。良馬場での勝ち時計2分01秒6は、芝2000mと間違えられてもまったく不思議ではない。2000mでの3歳馬のタイムなら、これは胸を張れるものである。しかし、メジロブライトの勝ち時計は、あくまで芝1800mを走ってのタイムだった。当時の芝1800mのJRAレコードは、1分47秒8である。
前代未聞の「驚異のタイム」に、人々は驚き、あきれ、そして笑った。この日のレース内容は、スタートで大きく出遅れながら、超スローで流れたレースを最後方から力ずくで差し切ったのだが、そんな勝ち方は、強烈なタイムの前にかき消され、ほとんど話題にならなかった。
『遥かな道』
こうして初勝利はあげたものの、有力馬というよりはむしろイロモノとして有名になってしまったメジロブライトだが、その後はすずらん賞(OP)、重賞初挑戦のデイリー杯3歳S(Gll)で、いずれも2着に食い込む好走を重ねた。いずれも出遅れながら直線で強烈な末脚を見せたもので、その瞬発力は出色のものだった。
実績を重ねたことで、ようやく
「実は強いかも…」
という声も上がり始めたメジロブライトだったが、その半面で、出遅れ癖は如何ともしがたいものに思われた。また、デイリー杯3歳Sでは2着といっても、勝ったシーキングザパールからは5馬身ちぎられている。この馬は、本当は強いのか、弱いのか。当時のメジロブライトは、実につかみ所がなく、評価の難しい馬だった。
それでもメジロブライトは、デイリー杯3歳Sで本章金を加算したことによってオープン入りを果たした。だが、いよいよ真価を問われるこの時期、メジロブライトはひどいソエに悩まされていた。最初にソエの症状が出た時は、馬があまりにも痛がるため、浅見厩舎の人々は
「すわ骨折か」
とレントゲン検査をしたほどだった。
ソエでしばらく戦線を離れたメジロブライトは、デイリー杯3歳Sから2ヶ月後、ラジオたんぱ杯3歳S(Glll)でようやく復帰した。
メジロブライトが本当の意味で全国区となったのは、このレースでのことだった。3歳重賞の中で唯一の2000mで行われる重賞であるこのレースは、翌年のクラシック戦線を占う上で、重要な意味を持つレースとされてきた。ここにはダンシングブレーヴ産駒でクラシックの秘密兵器との声もかかるテイエムトップダン、良血外国産馬ブレーヴテンダーといった期待馬が出走してきていたが、メジロブライトは、好位につけた彼らを、またしても後方一気の末脚で差し切った。「切れる」というよりは「力強い」という形容がぴったりなその末脚は、メジロブライトの実力が本物であることを人々にアピールするために十分なものだった。
『ライアン旋風、燃ゆ』
重賞初制覇を飾るに至って、ようやく人々はメジロブライトの真価に気がついた。距離が延び、一戦を経るごとに充実してきたレース内容と成長過程は、十分に「クラシック候補」の名に値する。また、メジロライアンを父とするメジロブライトは、当時久しぶりに現れた内国産馬の星でもあった。
父内国産馬は、生産界では嫌われていても、ファンにしてみれば、競馬の血のロマンを何よりも分かりやすく語ってくれる貴重な存在である。ましてメジロライアンといえば、現役時代はかなりの人気馬だった。メジロブライトに対し、多くのファンの熱い視線が集中し始めたのは、ある意味で当然のことだった。
メジロ牧場の生産馬でメジロライアン産駒といえば、メジロブライトだけでなく、3歳牝馬戦線でもメジロドーベルが大活躍し、阪神3歳牝馬S(Gl)を制していた。メジロライアンは、彼らの活躍で新種牡馬ランキングで首位となったのはもちろんのこと、3歳リーディング全体でも、ブライアンズタイムに次ぐ2位につけた。父内国産馬のメジロライアンがサンデーサイレンス、トニービンらを上回る成績を収める。こんな光景は、産駒がデビューするまで、誰も予想していなかった。
メジロ牧場も、メジロマックイーンやメジロライアンを含む1990年クラシック世代で7つのGl、19の重賞を勝ったものの、その「黄金世代」が去った後は、存亡の危機に立たされるほどの不振に悩んでいた。彼らが去った後、メジロ牧場の生産馬によるGl制覇はおろか、重賞制覇すら途絶えた。それどころか、重賞出走馬、オープン馬さえなかなか現れなくなったのである。あまりの惨状を見かねたオーナーは
「今なら借金を残さずに牧場をたためるよ」
と言い、それを聞いたスタッフが青くなったという逸話も残されている。
しかし、メジロ牧場をそんな地獄から見事に救い出したのは、彼らが賭けたメジロライアンの子供たちだった。メジロブライト、メジロドーベルの登場は、落日の名門牧場を見事に甦らせた。不思議なもので、何かできっかけをつかむと、これまで走らなかったほかの馬まで走り始める。日本有数の名門牧場は、こうして甦った。
当時の競馬界では、牡馬クラシック戦線はサンデーサイレンスを筆頭とする一部の輸入種牡馬産駒に独占され、内国産ファンにさびしい思いをさせていた。だが、メジロブライトの台頭は、こうした風潮に風穴を開けるものだった。彼らはファンとして、メジロブライトに熱い声援を送った。
メジロ牧場の復活の一翼を担い、内国産馬ファンの熱情に背中を押されたメジロブライトに次に託された希望は、翌年のクラシック戦線でのさらなる飛躍だった。故郷の人々の熱い想いをその身に背負い、羊蹄山に春を呼ぶ。そんなメジロブライトの熱い戦いの季節は、すぐそこまで迫っていた。