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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

~ダイアナソロン~
 1981年3月18日生、1994年9月20日死亡。牝。鹿毛。ランチョトマコマイ(苫小牧)産。
 父パーソロン、母ベゴニヤ(母父ヒカルタカイ)。中村好夫厩舎(栗東)。
 通算成績は、13戦5勝(旧3-5歳時)。主な勝ち鞍は、桜花賞(Gl)、サファイヤS(Glll)、
 エルフィンS(OP)。

(本作では列伝馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)を採用します)

『失われた物語』

 歴史を振り返ってみると、古今東西を問わず、重要な出来事は、分散して起こるのではなく、特定の時期に連続・集中して起こることがある。そうした出来事の中には、ある出来事が他の出来事を誘発して起こるものもあるが、まったく無関係であるはずの出来事が、まるで天の配剤であるかのように偶然同じ時期に重なるものも少なくない。

 中央競馬を「歴史」という視点から振り返った場合に、非常に重要な意味を持つのが「1984年」という年である。この年の最も本質的な事件といえば、中央競馬でのグレード制度の導入とレース体系の大変革が挙げられる。現代へと続く近代競馬の原型は、この年にできあがったといっても過言ではない。この変革は、日本の競馬の基本に関わる大事件であるがゆえに、様々な方面に大きな影響をもたらした。

 だが、この1984年という年に、グレード制度の導入という制度面の改革では説明できない重大事件がいくつも重なったことも、否定できない事実である。この年は、シンボリルドルフが空前絶後の「無敗の三冠馬」として戴冠し、ジャパンCでは、カツラギエースが日本馬として初めて悲願の制覇を成し遂げ、さらにマイル戦線ではニホンピロウィナーが王者として君臨した。「名馬が時代を築く」といわれることがあるが、日本の競馬史を振り返ると、1984年に限らず、競馬そのものが大きく変わる時代の変革期には不思議と名馬が現れている。その観点からすれば、むしろ正しいのは、「時代が名馬を求める」という言葉なのかもしれない。名馬たちによって旧時代の遺物、悪弊が淘汰されてこそ、新しい時代は名実ともに幕を開けることができる。それが時代の変革というものである。

 しかし、牡馬三冠戦線、古馬中長距離戦線、短距離戦線といった、新制度における各レース体系で次々と名馬が現れる中で唯一、この年に歴史に特筆できる名馬が現れなかった路線があった。それが1984年牝馬三冠戦線である。

 1984年の牝馬三冠戦線は、桜花賞をダイアナソロン、オークスをトウカイローマン、そしてエリザベス女王杯をキョウワサンダーとまったく違った馬たちが分け合っている。彼女たちの戦いは、それぞれが絶対的な決め手を欠く同レベルでの争いであり、三冠を通じての絶対的な主役は、ついに現れることがなかった。牝馬三冠戦線に新時代を象徴する名馬が現れるのは、2年後の1986年、当時としては中央競馬史上初めてとなる20世紀唯一の牝馬三冠を達成したメジロラモーヌの出現を待たなければならなかった。

 だが、そのことをもって1984年牝馬三冠戦線を過小評価することはできない。絶対的名馬によって淘汰されるものは、決して悪しきものばかりとは限らない。1984年以降の中央競馬は、近代化の波の中で合理的、論理的なものとなっていくが、その反面でファンの間には、それ以前の競馬が有していた非合理性、非論理性をこそ懐かしむ声が少なくないのもまた事実である。

 1984年牝馬三冠戦線の勝ち馬たちは、いずれも古色蒼然たる伝統を持った日本の古い牝系の出身だった。古い歴史を持つ牝系とは、競馬を単なるギャンブルとは区別する「血のロマン」の象徴であり、近代競馬において台頭する輸入牝馬の系統にはない独特の魅力でもある。そうした牝系が輝きを見せた1984年牝馬三冠戦線とは、急速に進む近代化とともに失われゆく競馬の非近代的なるものへの鎮魂歌だったのかもしれない。

『秘策』

 1984年の桜花賞(Gl)を制したのは、パーソロンとベゴニヤの間に生まれたダイアナソロンである。牝馬三冠戦線においては、桜花賞が最も「固く決着する」レースとされており、実際に桜花賞馬は、その後も長く活躍することが多い。この年も例外ではなく、3番人気の桜花賞を5馬身差の圧勝で制した彼女は、その後オークス、エリザベス女王杯で1番人気に支持され、1984年の牝馬三冠戦線の主役として活躍した。

 ダイアナソロンの血統は、父が当時のトップサイヤーだったパーソロン、母の父が史上初の南関東三冠馬であり、さらに「マル地」として初めて天皇賞を制したヒカルタカイというもので、これだけでもファンに与えるインパクトは強い。だが、彼女の血統を最も強く印象づけるのは、彼女の父でもなければ母の父でもなく彼女の曾祖母であり、その子孫を「亡霊の一族」と呼ばしめることとなった悲しくも数奇な物語だろう。

 ダイアナソロンの血統表を見ると、曾祖母の名前は「丘高」となっている。だが、「丘高」にはファンに親しまれたもうひとつの名前があった。彼女の競走馬時代の名前・・・「クモワカ」といえば、ある程度のキャリアを持つ競馬ファンはすぐにピンとくるに違いない。クモワカは1948年に生まれ、競走馬として32戦11勝、桜花賞2着、菊花賞4着といった戦績を残した牝馬である。

 ただ、彼女の名前は彼女自身の戦績より「流星の貴公子」テンポイントの祖母としての方が名高い。そして、クモワカの血統は、本来ならば後世に残るはずのない血統だった。1952年、京都競馬場でレースを走ったクモワカの体調に異変が生じた際に、獣医によって「ウマ伝染性貧血の疑いあり」という診断を下されたのである。

 「ウマ伝染性貧血」・・・一般に「伝貧」といわれるこの病気は、感染すると赤血球が減少して貧血症状を引き起こす。また、周期的に高熱を発しては解熱することを繰り返すが、その回数を重ねるごとに衰弱し、最後には100%死亡するという、サラブレッドにとっては不治の病である。しかも、ウイルスによって引き起こされるこの病気は、ハエ等を通して他のサラブレッドたちにも次々と伝染する性質を持つため、馬産家、厩舎関係者からは恐怖の死病として恐れられていた。日本では、伝貧の診断を受けた馬はもちろんのこと、その疑いがある馬についても殺処分としうることが法律で定められている。

 ただし、クモワカの場合、その診断は「伝貧の『疑い』あり」で、彼女の症状には、典型的な伝貧と一致しない点も多かった。・・・それでも、「京都競馬場で伝貧発生」という報告を受けた京都府は、獣医の診断に従ってクモワカを殺処分とするよう命令を下した。馬主による抗議は、聞き入れられなかった。

 やがて京都競馬場から、クモワカの姿が忽然と消えた。馬主からは殺処分の報告がなされ、セフトを父、月丘を母とする「クモワカ」の名前は、血統登録から抹消された。クモワカ騒動は、ここでいったん幕を閉じた。いや、この時点では、「騒動」ですらなかった。1952年当時の日本では、農耕馬、アラブ馬なども含めて年間約9000頭の馬が伝貧、またはその疑いがあるとして処分されていた。クモワカのことも、1頭の不運なサラブレッドが病気によって殺処分を受けた、ただそれだけのことだった。

『亡霊の一族』

 ところが、クモワカの姿が京都競馬場から消えた3年後、北海道の早来で大騒動が勃発した。3年前に死んだはずのクモワカが生きたまま、早来の吉田牧場に連れてこられたのである。

 クモワカが伝貧とは信じられない馬主やその周辺の人々によってひそかに京都競馬場から脱出させられていたクモワカは、「不治の病」であったはずなのに、なぜか健康を取り戻していた。別の獣医から「伝貧ではない」というお墨付きを受け、吉田牧場へと姿を現したクモワカのために、彼女の関係者たちは「丘高」という名前で血統登録するよう申請した。この日のために、彼女の血統登録書は、破棄しないまま大切に保存されていた。

 ・・・しかし、「丘高」の血統登録は、拒否されてしまった。いったん伝貧として殺処分を命じたクモワカの「復活」を認めることは、競馬界全体の秩序を乱すものとされた。登録をめぐって人間たちが争っている間に、クモワカは次々と子を産んだ。伝貧の発病に至った牝馬が出産することはありえない。後の北海道による検査によってクモワカへの診断は公式に誤診と認められ、殺処分命令は取り消された。それでも「丘高」の血統登録は、認められなかった。ついに裁判に持ち込まれ、その結果「丘高」とその子供たちの血統登録が認められたのは、クモワカが京都競馬場から姿を消してから実に11年目のことだった。

 クモワカの「復活」が認められた後、最初に生まれた産駒であるワカクモは、母の子として晴れてデビューし、かつて母が勝てなかった桜花賞を勝った。ファンは、一度死んだはずのクモワカを「亡霊」と呼びつつ、その一族の数奇な運命に喝采を送った。やがてこの一族からは、天皇賞・春、有馬記念を制して1976年の年度代表馬に輝き、「流星の貴公子」と呼ばれたテンポイントも現れた。・・・だが、歴史に残る真の名馬として日本の競馬界にその名を残したテンポイントは、かつて祖母が誤診によって競走生命と繁殖牝馬としての11年間を奪われた運命の地・京都競馬場で、粉雪舞う中に散っていった。「亡霊の一族」の物語は、そんな悲劇性から逃れられなかった。

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