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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

~トウカイローマン~
 1981年5月19日生、2007年2月17日死亡。牝。黒鹿毛。岡部牧場(浦河)産。
 父プレイヴェストローマン、母トウカイミドリ(母の父ファバージ)。中村均厩舎(栗東)
 通算成績は、30戦5勝(旧3~7歳時)。主な勝ち鞍は、オークス(Gl)、京都大賞典(Gll)、
 ジューンS(OP)。

『主役はいまだ舞台の下に』

 桜花賞におけるダイアナソロンの圧勝は、それまで大混戦とみられていた1984年牝馬三冠戦線の様相を一変させ、ダイアナソロンを確固たる主役の地位へと押し上げる結果となった。

 桜花賞から42日後、舞台を阪神競馬場から東京競馬場に移し、牝馬三冠戦線の舞台はオークス(Gl)へと移っていった。・・・オークス当日、桜花賞までの間1度も1番人気になったことがなかったダイアナソロンは、初めての1番人気に支持された。それも、単勝オッズは260円で、2番人気ウメノフーリンの650円に大差をつけていた。この時、ファンはダイアナソロンこそがオークスの主役であるとみなしていたのである。

 だが、オークスの本当の主役は、出走馬25頭のうち桜花賞馬ならざる24頭の中に潜んでいた。桜花賞でも18番人気ながら4着に入っていた彼女だったが、ダイアナソロンからおよそ6馬身半も後ろだったこと、血統的にも長距離への対応力が疑問視されたことから、オークスでの人気も単勝2050円の9番人気と、ほとんど目立たない存在だった。そんな彼女が、スタートからわずか2分半後には樫の女王、そして彼女たちの世代のスターダムに上り詰めたのである。1984年牝馬三冠戦線のシンデレラは、その名を「トウカイローマン」といった。

『ある名門の衰亡』

 桜花賞馬ダイアナソロンはクモワカの血を継ぐ「亡霊の一族」という名牝系の出身だったが、オークス馬トウカイローマンもまた、桜花賞馬に優るとも劣らない、輝かしい栄光と痛ましい悲劇に彩られた名族の出身である。

 トウカイローマンの牝系をたどっていくと、1937年の第6回日本ダービーで、従来のレコードを7秒以上更新する圧倒的な時計とともに優勝したヒサトモに行き着く。中央競馬史上、日本ダービーを制した牝馬は、ヒサトモのほかに1943年のクリフジと2007年のウオッカがいるのみである。さらにヒサトモは、ダービーを勝った後も帝室御賞典(現在の天皇賞)を大差勝ちするなどの実績を残し、26戦14勝の戦績を残して引退している。

 だが、繁殖入りしてからのヒサトモの産駒成績は振るわなかった。戦後の食糧難もあって、ヒサトモは牧場から追い出され、現役時代の馬主のもとに送り返されてしまった。その馬主も、事業の失敗と社会構造の変化でもはや馬を養う余力はなく、やがてヒサトモは、邪な心を持つ人間によって16歳の身で地方競馬に連れていかれ、競走馬に復帰することになったのである。

 現役に復帰したヒサトモは、圧倒的な絶対能力で復帰2戦目には早々と1勝を挙げた。しかし、人間の食料にも事欠く時勢の中で、馬の食糧など、たかが知れている。食事さえろくに与えられないまま、若い馬たちと一緒に走らされ、酷使されたヒサトモは、やがて浦和競馬場の片隅で倒れた。日本競馬史に残る名牝は、現役の競走馬としてその生を終えたのである。栄光に包まれた過去とはあまりにも対照的な悲しく寂しい死を遂げたヒサトモには、墓標すらない。それどころか、遺体がどのように処理されたのかも判然としないという。

 残されたヒサトモの産駒たちのうち、ヒサトマンという牡馬とブリューリボンという牝馬は、その血統を買われて繁殖入りすることになった。しかし、ヒサトマンの系統はほどなく消えていき、牝系をつなぐべきブリューリボンも、母同様に子出しは悪かった。「日本初の牝馬のダービー馬」として栄光をほしいままにしたヒサトモの一族は、そのわずか十数年後には、早くも滅亡の危機に瀕していた。

『第一房龍』

 浦河にある岡部牧場を数人連れの馬主が訪れたのは、1967年の夏の終わりのことだった。彼らの目的は、その中の1人で、馬主資格を取得したばかりの内村正則氏にとっての、記念すべき持ち馬1号を探すことだった。

 彼らは最初、別の馬を手に入れるべくある牧場を訪ねたが、その牧場に行ってみると、狙っていた馬は別の買い手が決まった後だった。がっかりする内村氏たちだったが、その牧場で偶然

「浦河の岡部牧場に面白い馬がいるよ」

という噂を聞きつけ、

「面白い馬とは、どんな馬だろう」

と思い、その馬を見せてもらうべく訪ねてきたのである。

 内村氏がそこで見せられたのは、他の馬が放牧されて元気に走り回っている中、放牧もされずに馬房の中でじっとしている牝馬「第一房龍」だった。内村氏が事情を聞いてみると、「第一房龍」は脚が生まれつき変形して腫れあがっていたために買い手がつかず、セリにも一度出されたものの、主取りになっているのだという。

 そんな話を聞かされた内村氏だったが、幸か不幸か、当時の彼は馬に対する知識が浅かった。彼女の脚の欠陥は、玄人が見ればそれだけで敬遠するものだったが、内村氏には、その欠陥が競走馬としてどれほど致命的なものかよりも、このままならば競走馬にもなれずに処分されてしまうであろう目の前の小柄な牝馬への不憫さが先に立った。また、内村氏は目の前の第一房龍のどこが「面白い馬」なのかもさっぱり分からなかったが、「面白い馬」といわれたことが気にかかっていた。

「面白いといわれるからにはどこか面白いんだろう」

ということで、その牝馬を自分で買い、持ち馬第1号として走らせることにした。・・・この時内村氏が手に入れた「第一房龍」こそブリューリボンの孫、すなわち名牝ヒサトモのひ孫にあたる牝馬だった。

『宿縁』

 「第一房龍」を手に入れた内村氏は、彼女に「トウカイクイン」という名前を与えて競馬場で走らせる一方で、競馬のことを勉強していった。最初に訪ねた牧場の人がトウカイクインを「面白い」といったのはトウカイクインの血統の話であること、トウカイクインの脚の欠陥はかなり深刻なもので、常識的にはとても走りそうにないことなども分かってきた。・・・だが、彼が知ったトウカイクインの一族の物語は、もともと馬主になろうというほど競馬に惹かれ始めていた彼の心をとらえるのに十分なものだった。日本競馬の黎明期に、かつてない栄光を勝ち得ながらも、やがて悲運の中に消えていった悲劇の名牝の子孫たちは、様々な人々の間を転々としながら各地を渡り歩き、その数少ない1頭が、今はこうして自分の持ち馬となっている。内村氏は、ほかの馬主なら決して手を出さなかったであろう牝馬との縁に対して、言葉では言い表しがたい運命を感じていた。

 そして、玄人に言わせれば「走るはずのない」トウカイクインが、大方の予想を裏切って6勝も挙げたことにより、内村氏による彼女の血統への愛着は、決定的なものとなった。脚部不安を抱えたトウカイクインは、固い馬場での時計勝負では苦戦したものの、馬場が柔らかく、力のいる重馬場では、いつも力強く走ってくれた。まるで拾ってくれた自分の恩に応えるかのように7歳まで走ってくれたトウカイクインの姿に、内村氏はすっかり感激してしまい、競馬、そしてトウカイクインの一族に完全に心を奪われてしまった。

「これから生まれてくるトウカイクインの子供たちは、全部自分が面倒を見る」

 そう誓った内村氏は、それ以降、トウカイクインの子、そして孫たちもすべて自分の持ち馬として走らせるようになった。ヒサトモの栄光から30年以上を経て、流浪の果てに内村氏と巡りあったヒサトモの一族は、その宿縁に救われて、かろうじてその命脈を保つことができたのである。

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