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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

『星霜』

 こうしてそれぞれ異なる軌跡をたどりながら、やがてそれぞれの時を得てターフから去っていった1984年牝馬三冠の勝ち馬たちだが、競馬界の時の流れは歩みを止めることなく、彼女たちを取り巻いた人々の競馬人生も続いていった。

 1984年牝馬三冠戦線から既に40年近い時が経ち、84年以降も長らく競馬界に籍を置いた吉岡師は2011年、中村均師は2019年に調教師を定年退職した。トウカイローマンの後にもマイネルマックス、マイネルセレクト、そしてビートブラックでGl勝利を重ねた中村均師は、旭日小綬章を受けている。

 トウカイローマンにオークスで騎乗した岡冨騎手は、もともと平地と障害の兼用騎手として鳴らしていたが、やがて障害中心となっていき、2003年に騎手を引退したものの、その後は調教助手として、現在も競馬界に残っている。

 キョウワサンダーの騎手である樋口騎手は、その後も約10年間の騎手生活を続けた後に、通算395勝の戦績を残して引退した。

 彼らの中で最も波乱多い「その後」を過ごしたのは、ダイアナソロンの中村好師と田原騎手だろう。このコンビは、翌85年には宝塚記念(Gl)での「ステートジャガー事件」に巻き込まれた。中村好厩舎の所属馬であり、田原騎手が騎乗していたステートジャガーは、宝塚記念で1番人気に支持されながら4着に敗れた。・・・それだけならどうということはないのだが、その後主催者に

「ステートジャガーは薬を使っている」

という正体不明の密告電話があり、尿検査の結果、本当にステートジャガーから禁止薬物のカフェインが検出されたのである。

 ステートジャガーは失格となったが、もちろん話はそれだけで済むはずがない。

「黒い疑惑」
「八百長か」

 マスコミ、そして競馬界は騒然となり、疑惑の目は中村好師、田原騎手らに向けられた。競馬法違反として警察も動き、彼らは連日事情聴取を受けることになった。

 だが、この事件で彼らを真犯人に擬するには、あまりに不自然な点がいくつかあったことも事実である。何者かがステートジャガーにカフェインを与えたことは事実でも、それが彼らであるという証拠はなく、事件は調教師と調教助手への、「馬の管理が不十分だったこと」に対する処分によって幕が引かれた。

 「ステートジャガー事件」の真犯人と動機は、今なお解明されていない。この事件自体、中村好師らを陥れるために仕組まれた陰謀だったという説もあるが、こちらの説とてなにひとつ確かな証拠はないのである。

 そんなトラブルの多かった彼らだが、89年にはコガネタイフウでコンビを組み、阪神3歳S(Gl)を勝っている。中村好師は2001年2月に定年を迎え、調教師として683勝、重賞24勝の戦績を残したまま引退した。・・・田原騎手の「その後」については、ここでは繰り返さない。

『追憶の彼方へ』

 1984年の牝馬三冠を分け合ったダイアナソロン、トウカイローマン、キョウワサンダーだが、残念ながら彼女たちの産駒の中からは、さしたる産駒は現れなかった。

 まずキョウワサンダーは、ミルジョージとの間で1頭の牡馬を残しただけで、1987年8月に死亡した。サラ系の十字架を背負いながらGlを制した彼女の血を引く一族は、現在の競馬には残っていない。というより、かつて隆盛を極めたバウアーストック系そのものも、2021年8月までに、完全に消滅した可能性が高い。「サラブレッド」の定義は8代系図内に血統書が確認できない馬がいるものとされ、8代にわたってサラブレッドと連続交配されて誕生した馬は、国際血統書委員会の審査によってサラブレッドと認められる可能性が生じるが、そこに至るまでの差別のあまりの激しさに、バウアーストックの子孫たちは生き残ることができなかったようである。

 ダイアナソロンは大塚牧場で繁殖生活を送った。ダイアナソロンが「天馬」トウショウボーイとの間にもうけたクエストフォベストは、生まれた直後からその血統のみならず馬体、動きのよさから「クラシックを狙える大器」として評判になった。クエストフォベストは、デビュー以降2戦2勝の戦績を残し、1993年クラシック戦線の有力候補に挙げられた。この年ビワハヤヒデの騎乗を依頼された岡部幸雄騎手が、クエストフォベストの先約があることを理由に断った話は有名である。

 しかし、現実は彼女たちにとって決して甘いものではない。クエストフォベストは、その後骨折してしまい、復帰を果たした後は「並みの馬」になっていた。その素質を惜しんだ人々の手によって種牡馬入りしたものの、種付け頭数もそう多くなく、大物が現れることもなかった。ダイアナソロン自身も、クエストフォベストの夢破れた後の1994年9月に死亡している。

 生まれ故郷の岡部牧場で繁殖生活を送ったトウカイローマンも、競走成績では遥かに劣る半妹トウカイナチュラルとは対照的に、大物を出すことはなかった。シンボリルドルフとの交配も実現したものの、結果は出なかった。

 彼女たちの血統は、今のところ地に潜んだままとなっているようである。ただ、トウカイローマンによってオークス馬の父となったプレイヴェストローマンは、その事実によって大きく道が拓けた。自身はマイル以下でしか勝ち鞍がない短距離馬だったプレイヴェストローマンだが、トウカイローマンがオークスをはじめとする長距離をこなし、さらに87年に桜花賞、オークスを制したマックスビューティを出したことで、「牝馬のプレイヴェストローマン」「長距離でも走るプレイヴェストローマン」という評価を確立し、人気種牡馬となった。彼の場合、普通なら牡馬に比べて安い価格で取引される牝馬が比較的高値で取引される特色があった。生まれてくる子馬の半分は牝馬であるという現実のもとで、牝馬が走ることは、プレイヴェストローマンの大きなセールスポイントとなったのである。・・・だが、そのプレイヴェストローマンも、もうこの世の馬ではない。

『秘策』

 1984年牝馬三冠の勝ち馬たちを振り返ってみると、現在の競馬界とは断絶した別世界のような感慨を覚える。少なくとも、彼女たちと同時代に活躍した牡馬であるミスターシービー、シンボリルドルフ、ニホンピロウィナーらに対する感覚とは、明らかに異なるのではないだろうか。1984年牝馬三冠勝ち馬に対する感覚は、むしろ1983年以前の牡馬・・・アンバーシャダイ、ハギノカムイオー、メジロティターンといった馬たちに対するそれに近い。彼らは83年有馬記念をもって引退した馬たちであり、ミスターシービーが三冠の後有馬記念に出走しさえしていれば、対決していたはずの馬たちである。だが、ファンの記憶の中で、彼らとミスターシービーとの間には、明らかな断層がある。

 1984年牝馬三冠勝ち馬たちが背負ったものがきわめて前近代的なものだったことは、彼女たちの牝系の物語が証明している。古くから日本へ根付いた牝系のみが持つこれらの物語と、Gl勝ち馬としての栄光。これらが一致する幸運は、世界水準の血統が次々と流入して競馬のレベルが上がった近現代の競馬においては、かなり少なくなってしまった。だが、こうした物語こそが日本競馬のロマンとして語り継がれてきたこともまた、厳然たる事実なのである。

 1984年牝馬三冠勝ち馬たちの個々の印象は、時代の狭間に埋もれがちであり、ファンに残した印象は薄いといわなければならない。しかし、彼女たちが持つ物語とは、まさに日本競馬の古きよき側面をも体現していたことも忘れてはならない。1984年牝馬三冠戦線とは、まさに近代競馬の始まりでありながら、前近代的な名残をも色濃く残し、そしてそれが最後の輝きを放った舞台でもあった。まさに中世と近代とが混在するセピア色の風景の中で展開された1984年牝馬三冠戦線とは、近代競馬から失われていった中世的ロマンの最後の残照だったのかもしれない―。

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