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1984年牝馬三冠勝ち馬列伝 ~セピア色の残照~

『誕生』

 トウカイクインを愛し、やがてトウカイクインが繁殖入りした後は、そのすべての子を所有馬として走らせた内村氏だったが、トウカイクインの子供たちの中でも、トウカイミドリという馬には特に思い入れが深かった。トウカイミドリは、3歳時に4戦1勝の成績を残したものの、その年の暮れに骨折して自力で寝起きすることさえできなくなったため、一度は予後不良の診断が下された。獣医に頼み込んで治療を続けてもらうことになったものの、そのとき獣医からは

「3週間で寝起きできなければ諦めてください」

と宣告されていた。

 そして、3週間が経った。トウカイミドリは、まだ立ち上がれなかった。結論を迫る獣医に、頭を地につけるかのような思いで治療の継続を懇請した。根負けした獣医は、

「あと1週間で立てなければ駄目です」

と答えた。・・・トウカイミドリが奇跡的に回復し、自力で立ち上がったのは、その3日後だった。

 辛うじて命をつないだトウカイミドリは、一族の新しい故郷となった岡部牧場で、無事繁殖入りすることができた。トウカイミドリの生還をとても喜んだ内村氏は、初めての種付け相手として、当時輸入されたばかりだったプレイヴェストローマンを選んだ。プレイヴェストローマンは、米国で25戦9勝の戦績を残し、サラナックH(米Gll)では世界の賞金王ワジマを抑えて優勝したことで知られる。また、現地に残してきた産駒からは、カナダオークス(加Gl)を勝ったファーストサマディが出ている。だが、そうした実績よりも大切だったのは、4歳時の1年間で21戦走ったプレイヴェストローマンの頑丈さだった。悲運の故障によって4戦走ったきりでターフを去らなければならなかったトウカイミドリに頑丈さを注入し、せめてその子には満足のいく競走生活を送らせたい・・・。そんな願いを託されて生まれたのが、トウカイローマンだった。

『選ばれし者』

 岡部牧場にいたころのトウカイローマンは、非常に気性が激しかったという。もともとトウカイクインの系統は、トウカイクイン自身をはじめ、気性の激しい一族だったが、トウカイローマンもまた、気性面では祖母のそれを受け継いでいた。

 トウカイローマンを預ける調教師を決める段階になった際、内村氏は、最も懇意にしていた松元省一調教師に依頼した。この時内村氏の持ち馬は、トウカイローマンのほかにトウカイクイン産駒のトウカイマリーもまだ入厩先が決まっていなかったため、内村氏は松元師に、この2頭を預かってもらおうと考えていた。

 ところが、折悪しく松元厩舎はその時馬房がいっぱいで、新馬は1頭しか預かる余裕がなかった。そこで松元師が内村氏に紹介したのが、1978年に自分の厩舎を旗揚げしたばかりの若手調教師・中村均師だった。松元師と中村均師は、相談した上で内村氏の持ち馬の2頭を分け合うことにした。

 内村氏が用意した2頭のうち、有望なのはトウカイローマンの方だった。しかし、松元師は

「こちらが無理を言って預かってもらうのだから、好きな方を持っていって下さい」

と選択権を中村均師に譲った。そして中村均師がトウカイローマンを選んだことで、中村均厩舎のトウカイローマンが誕生したのである。

『秘策』

 中村均厩舎からデビューすることになったトウカイローマンは、やがて3歳末の中京開催でデビューした。デビュー戦こそ2着に敗れたものの、折り返しで初勝利を挙げたというのは、まずは順調な滑り出しというべきだろう。ただし、この時の新馬戦がいずれもダート1000mのレースだったということは付記しておかなければならない。また、やはり2戦で突破した400万下も、いずれもダートの1400mのレースだった。芝のレースを中心とする中央競馬のレース体系の中で、デビュー当初のトウカイローマンは、華やかさとは無縁のところにいた。

 この時点で通算戦績を4戦2勝2着2回としたトウカイローマン陣営は、次走として桜花賞トライアルのチューリップ賞(OP)を選んだ。いよいよクラシックの季節を迎え、連対率100%でクラシック戦線へと攻め上る・・・といえば聞こえはいいが、当時のJRAの番組上、この時期はそもそもダートの上級戦など組まれていないことからすれば、他に選択肢はない。ダートの短距離でしか走ったことのないトウカイローマンが、芝でどこまで通用するのかは、まったくの未知数だった。・・・というよりは、悲観的な見方の方がはるかに強かった。当時は今よりさらに「すべての強い馬はクラシックを目指すべき」という風潮が強く、この時点で2勝馬となったトウカイローマンがクラシックに挑戦することは当然の選択だったが、他の有力馬たちがやはりクラシックへ集中するのも、やはり当然の道理である。そんな相手にトウカイローマンが通用すると言い切れる材料は、何もなかった。

 しかも、この時トウカイローマンの調整状況には、大きな不安があった。トウカイローマンは、2勝目を挙げた若菜賞のレース直後に転倒し、ひざを痛めていたのである。幸いけがはそれほどの重症ではなかったが、調教はしばらく計画通りにつけられずに調整が遅れており、中村均師にしてみれば

「許されるならばレースにはしばらく使いたくない」

という状態だった。だが、もし桜花賞トライアルを使わないとしたら、桜花賞(Gl)で初めて芝に挑戦することになる。これではいくらなんでも馬が力を出し切れない・・・。

 そんな背景があるのでは、出走に踏み切ったとはいえ、トウカイローマン陣営の意気は上がろうはずもない。そのレースの結果が、ウラカワミユキ(ナイスネイチャの母)の8着というものでは、本番への期待などしぼむのが当然である。わずかながらにトウカイローマンに集まっていた期待と注目も、この敗北によってかき消された。連対はすべてダートで、初めての芝挑戦となったチューリップ賞では、さしたる実績馬もいない相手関係の中で、見せ場すらない8着。・・・これらが物語るのは、トウカイローマンはダート馬という事実である。そんな馬が、いきなり芝レースの最高峰であるGlに出走しても、通用するはずがない。桜花賞でのトウカイローマンの人気が21頭だての18番人気だったのも、やむを得ないことだった。

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