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マックスビューティ列伝~究極美伝説~

『空しき栄誉』

 有馬記念でのマックスビューティは、同期の牡馬の二冠馬サクラスターオー、前走のジャパンC(Gl)で3着に入った名牝ダイナアクトレス、やはり同期のダービー馬メリーナイスに次ぐ4番人気に支持された。前年のダービー馬ダイナガリバーや、同じく前年の菊花賞馬メジロデュレンを上回る人気は、彼女がこの年に残してきた実績に対する信頼を物語っていた。

 しかし、このレースでの彼女は、なんらいいところを見せないまま、10着に惨敗した。12着のタレンティドガールにこそ先着したものの、サクラスターオーの競走中止、メリーナイスの落馬、メジロデュレンとユーワジェームスによる枠連16300円の大荒れ決着によって知られるこの日のレースは、マックスビューティにとっては初めて掲示板を外す惨敗となった。

 それでもマックスビューティは、1987年の最優秀4歳牝馬に選出された。また、この年彼女が稼いだ2億9546万2900円は、同じくGlを2勝したサクラスターオー、ニッポーテイオーを抑えて年間最高収得賞金だった。・・・しかし、そうした栄光とは裏腹に、有馬記念での惨敗を分水嶺として、彼女の威光は確実に衰えつつあった。

『見誤った引き際』

 本来、マックスビューティの変化に誰よりも鋭敏にとらえていたのは、伊藤師だった。

「古馬になってからのマックスビューティは、戦う身体から女、母の身体になっていった・・・」

 後になって、伊藤師はこのように語っている。有馬記念は惨敗したとはいえ、桜花賞とオークスを圧勝したのをはじめ、通算9勝、重賞5勝を挙げ、エリザベス女王杯でも2着に入った「準牝馬三冠馬」マックスビューティの実績は、牝馬としては十分すぎるものだった。しかし、そんな伊藤師を縛っていたのは、

「なんとか通算勝利数を、キリのいい10勝にしてやりたい・・・」

という気持ち・・・というよりは、人間の都合だった。

 中央競馬の歴史をひもとくと、通算10勝以上を挙げた牝馬はめったにいないことから、名牝としての何よりの証となる。また、その勲章があれば、繁殖に上がってからの評価はさらに上向く・・・。だが、伊藤師がその思いの誤りに気づいたのは、もっと後になってからのことだった。

『10勝の壁』

 翌1988年のマックスビューティは、マイラーズC(Gll)から始動した。マイラーズCは、前年にマックスビューティが8馬身差の圧勝を遂げた桜花賞と同じ阪神1600mコースで開催される。伊藤師は、この年はマックスビューティを、マイルから中距離を中心に使うつもりであり、相性のいいコースで行われるマイラーズCは、その手始めだった。

 この日の12頭の出走馬たちに、マックスビューティ以外にGl馬はいなかった。そのため、ファンの支持は自然とマックスビューティに集まり、単勝230円の1番人気に推された。

 だが、マックスビューティはミスターボーイから遅れること2馬身半の3着に敗れた。

「久々で58kgなら、走っている。古馬が強いということでしょう・・・」

 確かにマックスビューティはこの日が2ヶ月ぶりの実戦であり、さらにそれまで斤量は55kgまでしか背負ったことのないマックスビューティにとって、58kgというのは酷量だったのかもしれない。しかし、マックスビューティは、同世代の牝馬たちにおいて絶対的な輝きを放っていたはずだった。少なくとも、古馬だからといって二線級の相手に、あっさりと負けてしまうような馬ではなかった。

「古馬が強い」

などというコメントが伊藤師の口から出てくるとは、マックスビューティはもはや、4歳時の輝きを失ってしまったのか・・・。ファンの失望は大きかった。

 マックスビューティは、続く産経大阪杯(Gll)でも1番人気に支持され、そして8着に敗れた。マックスビューティという華は、この時既に絶頂期をすぎていた。それでも彼女が走り続けた理由は、簡単に達成できるはずだった「10勝」の壁に挑もうとする人間の意地だけだった。

 ちなみに、マックスビューティのローテーションについて伊藤師と意見が対立した田原騎手は、このレースを最後に二度とマックスビューティに騎乗することはなかった。

『華の命は短くて』

 それ以降のマックスビューティは、掲示板に載ることさえできない敗北を重ね続けた。これだけ負けが重なると、前年の栄光まで汚してしまうことになりかねない。・・・いや、もう汚しているかもしれない・・・。なればこそ、栄光を汚してまでこだわった「10勝」は、何が何でも達成しなければならなくなっていた。

 マックスビューティは、秋のオパールS(OP)でようやく、念願の10勝目を挙げた。だが、これといった敵のいないオープン特別での勝利は、それまでに十分すぎる勲章を持つマックスビューティにとって、単なる「数合わせ」としての意味しか持たなかった。

 マックスビューティは、スワンS(Gll)9着を最後に引退し、生まれ故郷の酒井牧場へと帰っていくことになった。 マックスビューティの通算成績は19戦10勝、桜花賞、オークス制覇によって牝馬二冠を達成し、エリザベス女王杯では2着という「準三冠」の戦績を残したマックスビューティだったが、5歳になってからの彼女の戦績は6戦1勝で、輝かしい戦績を残した4歳時に比べると、あまりにも振るわないものだった。

「マックスは、あの1戦(エリザベス女王杯)で燃え尽きたんではないでしょうか・・・」

とは、マックスビューティの生産者である酒井公平氏の言である。また、伊藤師も、晩年のマックスビューティの不振について、自分が引き際を見誤ったことを率直に認めている。

「馬に申し訳ないことをした・・・」

 それが、マックスビューティの競走生活の末期に関する伊藤師の言葉である。競馬界では、「牝馬の絶頂期は短い」といわれることがあるが、牝馬三冠戦戦での輝かしい実績と、その後の凋落・・・競馬界の格言を裏付けるような彼女の競走生活は、牝馬の華やかさとともに、難しさをも私たちに思い知らせるものだった。

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