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マックスビューティ列伝~究極美伝説~

『鳴りやまぬカーテンコール』

 残り200m以降の直線は、もうマックスビューティのためだけの舞台となった。後続との差が開く一方という異様な光景に、仁川のスタンドは騒然となった。1番人気ではあったものの、決して抜けた支持ではなかったはずのマックスビューティが、彼らの目の前で演じているのは、凄まじいまでの独演会である。まさか、これほどまでに強いとは・・・。

「なんか4コーナー回ったら、白い帽子がヒューッと抜けてきたことしかわからんかった。思考停止。声も出なんだ・・・」

というのは、マックスビューティの馬主である田所氏の弁である。もっとも、その驚きは馬主ゆえのものというより、スタンドに居合わせたファンの全体が共有したものだった。

 スタンドの興奮と熱狂の中、マックスビューティはゴールへと駆け込んだ。ゴールの時、マックスビューティと2着コーセイとの差は、実に8馬身まで開いていた。まさに「圧勝」以外の形容が思いつかない見事な勝ち方だった。凱旋するマックスビューティと田原騎手を迎えたのは、そのあまりの強さ・・・もはや美しさと呼ぶべき力の差を見せつけた勝者に対する、鳴りやまぬ称賛と歓呼の声だった。

『魅せられた男たち』

 桜花賞での「圧勝」といえば、

「赤い帽子がただひとつ!後ろからは何にも来ない!」

の実況で有名な1971年のテスコガビーが知られている。逃げ馬でありながら、圧倒的なスピードで最後までその差を広げ続け、1分34秒9のレコードタイム(当時)で大差勝ちしたテスコガビーには及ばなかったものの、この日マックスビューティが記録した1分35秒1という勝ちタイム、コーセイにつけた8馬身差という着差は、テスコガビーに次ぐ史上2番目のものだった。伊藤師は、

「上から見ていたので5馬身差くらいしかつかなかったように見えたので、着差は少し不満でしたが、後で降りていって8馬身差ついたと知り、納得しました」

と答え、このタイムと着差について聞かれた田原騎手も、

「追わなくても勝てるのは分かってたけど、それでは他の馬に失礼だから。ひとつどれだけ強い馬なのかを見せてやろうと思った」

とコメントしている。この上なく不敵、不遜なコメントだが、ことこの日のマックスビューティに関しては、それ以上に真実を語るコメントは存在しなかったに違いない。

 マックスビューティの表彰式は、関係者にとってとても思い出深いものとなった。まず、馬主の田所氏は、阪神馬主協会の役員だったため、それまでの阪神のGlでは、レースが終わるとウィナーズサークルに下りていって、勝者を祝福する役回りだった。

「自分の馬が負けた時も手を叩くんだから、殺生なもんですわ。一度は(手を)叩かれる側に回ってみたいと願っていたんです」

 この日、田所氏の悲願は、マックスビューティによって果たされたのである。

 また、この日の記念撮影に、酒井牧場の代表者として納まっているのは、酒井公平氏でなく、父の幸一氏である。酒井牧場の繁栄の基礎を築き、61年にはハクショウで日本ダービー、チトセホープでオークスを勝ってもいる幸一氏だったが、その時は仕事が忙しくて東京競馬場に行くことができず、表彰式にも出られなかった。幸一氏は、そのことを後々まで残念がっていたが、その思いは、一時周囲から「不肖の跡取り」といわれた息子によって晴らされた。息子から贈られた最高のプレゼントに、幸一氏は感激のあまり、身体を震わせ、感涙にむせんでいたという。

 それぞれの反応を見せた関係者たちの共通点・・・それは、彼らが1頭のマックスビューティというサラブレッドによって結びつけられ、彼女によって魅せられたという点にあった。彼らの中心にあるのは、間違いなくマックスビューティという天の与えた名牝であり、彼女に魅せられた男たちに見守られ、彼女は桜の女王へと戴冠したのである。

『柴政、慨嘆す』

 このように、関係者に深い感動を与えたマックスビューティだったが、伊藤師、田原騎手らは、そういつまでも感動にひたっているわけにはいかなかった。桜花賞が終わった直後から、牝馬たちのオークスに向けた戦いは始まっていた。

 桜花賞馬マックスビューティは、その後オークス(Gl)に直行するのではなく、オークストライアル4歳牝馬特別(Gll)に出走することになった。オークスへの出走という点では、桜花賞制覇によって優先出走権を持つマックスビューティがトライアルに出走する意義は乏しい。ただ、伊藤師には、オークスの本番前に、一度左回りの東京競馬場と、2000mの距離を経験させておきたい、という気持ちがあった。それまで右回りの競馬場、マイル以下の距離しか走っていなかったマックスビューティにライバルがいるとすれば、それは他の陣営ではなく彼女自身の経験の浅さであり、未知のコースと距離だろうと思われたためである。幸いマックスビューティに桜花賞の疲労はまったくなく、良好な状態を保っていた。

 ところで、この日は主戦騎手の田原騎手が、他のレースでの斜行によって騎乗停止処分を受けていたため、柴田政人騎手が函館での2戦以来となる手綱を取った。久しぶりにマックスビューティの乗り心地を確かめた柴田騎手も、馬の充実ぶりには驚くばかりだった。そんな彼が課題としたのは、オークスを見据えて「勝つためにどうするか」ではなく「どのように勝つか」だった。柴田騎手は、レース前に

「今日は鞭を使わずに勝とう」

などということを考えていた。

 実際には、世の中はなかなか人間様の思うとおりにはいかないもので、レースが始まって大健闘したのは、人気薄の逃げ馬クリロータリーだった。8番人気、単勝3370円の伏兵が一時は「あわや」という場面を見せ、追撃が遅れた柴田騎手は、ゴール前で、封印するはずだった鞭を抜く羽目になった。

 しかし、マックスビューティは、意外な奇襲を受けても、最後にはきっちりと差し切ってみせた。着差が1馬身半と「小さかった」ため、一部には

「距離は大丈夫か」

という声も挙がったが、柴田騎手にしてみれば、鞭を何度か入れたとはいえ、トライアルということで、マックスビューティのすべてを出し切ったわけではない。彼はむしろ、追い出してからの伸びに

「もし本気で追ったらどれくらい伸びるんだろう」

という末恐ろしさを感じていた。彼は、レース後に感想を聞かれた際に、

「本当に強いね。オークスもこの馬で決まりなんじゃないかな・・・」

と漏らしている。オークス本番のマックスビューティの手綱は、騎乗停止処分が解ける田原騎手に戻ることが決まっていた。一方、柴田騎手には、この年の牝馬三冠戦線に上位人気の乗り馬がいなかった。かつて自分も騎乗する機会を与えられていたマックスビューティの予想もしない成長ぶりに、果たして彼は何を思ったのだろうか。

『移りゆく戦場』

 桜花賞に続き、初コース、初距離のオークストライアルも勝ったことで、オークス(Gl)でのマックスビューティは、絶対的な本命として注目を集めることになった。今度は「二強」でもなければ「一騎打ち」でもない。マックスビューティの二冠達成なるか・・・?1987年牝馬三冠戦線の華、第48回オークスの焦点は、その一点に絞られていった。

 ところで、いずれもほぼ同じ時期に東京芝2400mで行われ、牡牝それぞれの「三冠レース」の華と位置づけられている日本ダービーとオークスだが、こと一冠目のレースとの間の関係では、この両者には大きな違いがある。牡馬の場合、2000mの皐月賞の結果は、2400mの日本ダービーにも直結し、ほとんどの場合、日本ダービーも皐月賞の上位馬同士による決着となる。また、皐月賞、ダービーの二冠馬も少なくない。

 だが、牝馬の場合はそうはいかない。牝馬は牡馬に比べて、ただでさえ体調の消長が激しく、長期に渡って好調を維持するのが難しい。しかも、桜花賞の距離は1600mなのに、オークスの距離は2400mである。これだけ距離に差があるのでは、レースの性質そのものに大きな影響が出てくる。「ダービーの最大のトライアルは皐月賞」といわれる状況は、桜花賞とオークスには当てはまらず、多くの強い桜花賞馬たちがオークスでクラシックディスタンスの壁に挑んでは、敗れ去っていった。桜花賞とオークスを同じように押し切ることは、よほどの能力と広範な距離適性、そして女王の強運を兼ね備える必要がある。1987年以前に誕生した皐月賞、日本ダービーの二冠馬(三冠馬を含む)は14頭であるのに対し、桜花賞、オークスの二冠牝馬(三冠牝馬を含む)はわずか7頭という現実が、牝馬二冠の困難さを物語っていた。

 果たして、マックスビューティは牝馬二冠の壁を超えることができるのか。マックスビューティの父ブレイヴェストローマンは、現役時代の実績は明らかに短距離偏重だったものの、初年度産駒からはオークス馬トウカイローマンを輩出しているし、牝系からも、二冠馬トキノミノルやアルゼンチン共和国杯勝ち馬ゼンマツらが出ていることから、ある程度はスタミナの裏づけも存在している。何よりマックスビューティ自身、桜花賞では史上2番目の勝ちタイムと着差で後続との実力差を示し、さらに4歳牝馬特別の勝利によって、2000mまでなら克服できることを証明済みである。

 しかし、それらの材料を並べてもなお募る不安・・・それが「牝馬二冠」の壁であり、歴史が証明してきた困難だった。可能性と限界・・・そんな二律背反を見つめながら、マックスビューティの戦いは東京競馬場、樫の女王の舞台へと移っていった。

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