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マックスビューティ列伝~究極美伝説~

『波乱の幕開け』

 さて、武田師をして「目の保養をさせてもらった」と言わしめたマックスビューティだったが、3歳の時の彼女は、決して順調だったわけではなかった。

 まず、札幌でデビュー戦を迎える直前になって、彼女は蹄球炎を発症したため出走を回避し、目標を函館デビューに切り替えざるを得なかったのが最初の躓きだった。

 その後、柴田政人騎手を鞍上に迎え、函館芝1200mの新馬戦でデビューしたマックスビューティは、天性のスピードに任せた走りでスタートから先頭に立ち、そのままゴールまで先頭を譲ることなく逃げ切った。1番人気に応え、4馬身差で飾った圧勝は、大器の片鱗をうかがわせるものだった。

 しかし、その後がいけない。函館3歳S(Glll)へと進んだマックスビューティは、単勝170円という圧倒的1番人気に支持されたものの、そんな彼女の前に立ちはだかったのは予期せぬ敵・・・天候だった。レース当日は雨が降りしきり、函館の芝コースの状態はみるみる悪化していった。そして、内枠1番を引いていた彼女は、馬群の中で馬場状態が悪い内側に閉じ込められたまま身動きが取れず、4番人気のホクトヘリオスに足もとをすくわれる結果となった。勝ち馬から引き離されること5馬身、4着という完敗は、彼女の大器という評判を貶めるに十分なものだった。

 函館3歳Sの後、笹針を打って2ヶ月半の休養をとったマックスビューティは、3歳牝馬S(Glll)で復帰した。しかし、柴田騎手は、親しかった野平祐二師に請われて中山のステイヤーズS(Glll)に残ることになったため、彼女の鞍上は南井克巳騎手に乗り替わっている。そして、この日の彼女は、1番人気をタケノコーリー、さらに1着をドウカンジョーへと譲った。3戦1勝、重賞はGlllで2戦とも敗退・・・これが、マックスビューティの3歳戦のすべてである。最優秀3歳牝馬もコーセイとドウカンジョーに決まったが、この戦績ではやむを得ない。

 こうしてマックスビューティの1986年は暮れていった。究極美の季節は、まだ訪れていなかった。

『春遠からじ』

 マックスビューティの能力と資質が一気に開花したのは、彼女が4歳になってからのことだった。この点について伊藤師は、

「走る馬だということは分かっていたし、3歳のうちに無理する必要はない。(3歳時の仕上げは)余裕を持たせたつくりで、馬に自然と実が入ってくるのを待っていた、というところでした」

と話している。そんな伊藤師の思いに応えて、マックスビューティにいよいよ実が入り始めたのである。

 1987年に入り、明け4歳になったばかりのマックスビューティは、始動戦の紅梅賞(OP)でこの年初めての勝利をあげた。この日の京都芝コースは重馬場で、不良馬場の函館3歳Sでの敗北があるだけに不安を感じさせる馬場だったが、ここでの彼女は地力が違い、幸先のいいスタートを飾った。

 続くバイオレットS(OP)では、南井騎手が同じレースに出走するホウエイソブリンに騎乗することになったため、マックスビューティは田原成貴騎手を鞍上に迎えることになった。マックスビューティは、この年の牝馬三冠戦線を田原騎手とともに戦うことになる。

 新しいパートナーとの初めての戦いを、先行抜け出しという危なげのない競馬、それも5馬身差の圧勝で飾ったマックスビューティは、桜花賞トライアルの季節を前に、いよいよ本格化の時を迎えようとしていた。

『マックスビューティ対コーセイ』

 マックスビューティは、桜花賞トライアルの中で最も早い時期に行なわれるチューリップ賞(OP)に出走し、ここでも楽勝した。この日は着差こそ2馬身差だったものの、マックスビューティを追う田原騎手の手は、レースが終わるまでほとんど動くことのない「持ったまま」での勝利だった。

 オープン特別3連勝、トライアルでも他の馬たちとは次元の違う勝ち方を見せたマックスビューティは、本番の季節を前にして桜花賞戦線、そして牝馬三冠戦線の主役へと躍り出た。もっとも、彼女に弱みがまったくないかというと、そうでもない。マックスビューティが4歳になってから勝ったのはすべてオープン特別で重賞ではないため、本当の意味で強い相手とは戦っていない。彼女は、まだ本当の主役になってはいなかった。

 チューリップ賞の翌週の土曜日、中山競馬場ではフラワーC(Glll)が行われ、関東の秘密兵器ハセベルテックスが桜花賞に名乗りをあげた。だが、桜花賞におけるマックスビューティの最大のライバルがはっきりするのはその翌日・・・4歳牝馬特別(Gll)でのことだった。

 4歳牝馬特別には、桜花賞トライアルの中で唯一の重賞、それもGllだけあって、前年の最優秀3歳牝馬の1頭であるドウカンジョー、年頭のクイーンC(Glll)を勝ったナカミジュリアンといった注目馬たちが集まっていた。ドウカンジョーが83年の三冠馬ミスターシービーを輩出したトウショウボーイの産駒、ナカミジュリアンが86年の牝馬三冠馬メジロラモーヌを送り出したモガミ産駒、という良血でもある。だが、そんな良血馬たちをまとめて負かしたのは、安馬の代名詞ともいえる「抽選馬」のコーセイだった。

 コーセイの父タイテエムは1973年の天皇賞馬であり、また当時の内国産種牡馬としては珍しく、多くの重賞馬を輩出し、成功を収めてもいた。ただ、それでも種牡馬としての格は、トウショウボーイ、モガミと比べると、かなり劣っていたことも否めない。コーセイに対する期待度は、2歳時のセリでわずか285万円、それも日本中央競馬会によって買われ、抽選馬として配布されたという事実からもうかがわれる。

 しかし、競馬場に降り立つと、そのコーセイが走りに走った。デビュー戦を8馬身差、1戦敗れた後の400万下特別を6馬身差で圧勝した彼女は、中山の3歳牝馬特別(Glll)を勝って重賞ウィナーに名を連ね、さらに最優秀3歳牝馬にも選出された。年明け初戦のクイーンCこそナカミジュリアンの2着に惜敗したものの、続く4歳牝馬特別では終盤に鋭い切れ味を見せ、前走で後塵を拝したナカミジュリアンに雪辱を果たしただけでなく、他の有力馬たちをもことごとく差し切った。

 チューリップ賞を勝った関西のマックスビューティの戦績が6戦4勝なら、4歳牝馬特別(Gll)を制した関東のコーセイの戦績も、やはり6戦4勝である。生まれながらに大きな期待を背負ったマックスビューティが480kgの大柄な馬体を生かした好位からの競馬を持ち味としているのに対し、生まれた時にはあまり期待されていなかったコーセイは、430kgそこそこの小柄な馬体ながら、鋭い切れ味を武器としていた。この年の桜花賞戦線は、本番を前に「マックスビューティ対コーセイ」という、対照的な2頭による一騎打ちムードが高まっていった。

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