阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~
~アインブライド~
1995年4月14日生。2002年3月28日死亡。牝。鹿。宮徹(栗東)。
父コマンダーインチーフ、母セブンレットウ(母父パーソロン)北星村田牧場(新冠)。
3~5歳時14戦3勝。阪神3歳牝馬S(Gl)、野路菊S(OP)優勝。
(本紀馬の現役当時の馬齢表記に従い、旧年齢(数え年)で記載しています。)
『ルーキーとともに』
1997年の阪神3歳牝馬S(Gl)勝ち馬であるアインブライドは、多くの競馬ファンにとって、Gl馬のみならず阪神3歳牝馬Sの歴代勝ち馬の中でも、その印象が薄い1頭であると思われる。
アインブライドが現役時代に残した戦績は14戦3勝で、重賞勝ちは阪神3歳牝馬Sのひとつだけである。自らの通算成績は振るわなくても、9番人気で12番人気の2着馬を連れてきたがゆえに馬連12万馬券の当事者として歴史に名を刻んだ92年のスエヒロジョウオーのような例もあるが、アインブライドには、そのような分かりやすい特徴もない。
そんなアインブライドだが、騎手としては大成できず、調教師転身後も開業直後で四苦八苦していた新人調教師と、デビュー後わずか2年にも満たない20歳の若手騎手とのコンビでGlに臨み、そして勝っている。全13戦のすべてを宮徹厩舎の所属馬として走り、そのうち11戦を古川吉洋騎手とともに戦った。調教師、騎手として決して恵まれたスタートを切ったわけではなかった彼らにとって、アインブライドとの日々は、忘れ難いものであるに違いない。馬と人の出会いによって始まる物語、それがアインブライドの物語である。
『一族の源流』
後の阪神3歳牝馬S勝ち馬アインブライドは、1995年4月14日、新冠の北星村田牧場で生まれた。95年春のGl戦線が開幕し、ワンダーパヒュームが桜花賞を勝った5日後の出来事である。
アインブライドの父は、80年代の欧州最強馬という呼び声高いダンシングブレーヴの代表産駒であり、自らも通算6戦5勝、英愛ダービーを連勝した実績を引っさげて94年に日本へと輸入されたコマンダーインチーフである。そんな偉大な父親に比べると、通算成績が4戦1勝にすぎない母親のセブンレットウという組み合わせは、いささかバランスを欠いているように見えなくもない。
しかし、セブンレットウの祖母フェアリーテイルは、北星村田牧場が先代の個人経営だった1968年に、近隣の牧場と一緒に英国へ渡って買い付けてきた数頭の牝馬の中の1頭だった。66年の仏リーディングサイヤーSicambreの直子だったフェアリーテイルは、一緒に英国に渡った仲間内の抽選の結果、北星村田牧場にやってくることになった。当時牧場の跡取り息子だった村田春未氏は、この馬を見て
「これが世界の血統なんだ…」
と深く感動した思い出があって、彼女に特別な気持ちを寄せていた。
そんなフェアリーテイルは、繁殖牝馬として、期待にたがわぬ優れた実績を残した。特に、第3子のミサトクインが南関東で8勝、それも関東オークス優勝、東京大賞典2着、東京ダービー3着などの輝かしい戦績を挙げたことで、母の名前も大きく高まった。ミサトクインの5歳下の妹にあたるホクセーミドリが生まれたころには、
「フェアリーテイルに仔馬が生まれた」
という噂が流れると、中央の調教師たちが次々と仔馬を見に来るようになっていた。
『祖母の無念』
名種牡馬ヴェンチアを父とするホクセーミドリは、当時の馬産地の最先端の血統であり、北星村田牧場にとっては生まれながらの期待馬だった。村田氏は、デビュー前のホクセーミドリが放牧地にいた時の様子をはっきり思い出せるという。
「(放牧地で止まった状態から)何かを思い立つと、4本脚のまま何十cmか飛び上がるんですよ。このバネはすごいと思いました。素人目にも、ミドリの凄さはわかりました」
そんなずば抜けたバネの良さを見ていた村田氏は、ホクセーミドリを手元に残して、将来の牧場の中心となる繁殖牝馬にしようと考えていた。ホクセーミドリには購入の申し入れも多く、中には2000万円の値をつけるものもあったが、その申し込みに対して
「引退後に牧場に戻ってくる保証がない」
と強く反対したのが、跡取り息子の村田氏だった。
結局、村田氏の意向通りにホクセーミドリの売却の話は流れ、北星村田牧場の所有馬のままデビューすることになった。これで結果を残せなかったら村田氏の立場としてもよくはなかっただろうが、幸い、ホクセーミドリは、現役時代にオークス3着、ラジオたんぱ賞優勝など通算8戦4勝の戦績を残して、村田氏らの期待に応えた。
ただ、村田氏がホクセーミドリの競走生活の中で最も強く覚えているのは、牡馬たちを破ってのたんぱ賞優勝でもなければ、名牝アグネスレディーにあと一歩及ばなかったオークス3着でもなく、出走することさえできなかった桜花賞だという。この時のホクセーミドリは、休み明けの阪神牝馬特別で2着に入った後、急速に調子を上げていたため、高木嘉夫調教師から
「家族で旗揚げに来てください!」
と誘われていた。しかし、それほどに状態が良かったはずのホクセーミドリは、レース直前に熱発し、本番を目前にして無念の回避となった。彼女がいない桜花賞の栄光は、阪神牝馬特別で7着だったホースメンテスコの手に帰したのである。
そんな無念の思い出もあっただけに、ホクセーミドリが牧場に帰ってきた時の村田氏には、
「Glを勝てる馬だったのに、本当に運のない馬だった・・・」
という心残りと、
「いつか、ミドリの子で桜花賞の無念を晴らす」
という野心があった。
『船出は不安とともに』
しかし、ホクセーミドリの仔馬たちは、なかなか実績を残せなかった。プレイヴェストローマンやパーソロンといった一流種牡馬と交配されても、不受胎や事故死が重なり、結果につながらなかった。
セブンレットウは、そんなホクセーミドリの第3子である。自身の競走成績は振るわなくても、北星村田牧場が祖母のフェアリーテイルから約30年にわたって育ててきた血統だった。プレイヴェストローマンとの間に生まれた5歳上のメイショウヤシマは中央で4勝を挙げており、繁殖牝馬としての実績もある。
コマンダーインチーフとセブンレットウとの間に生まれた「セブンレットウの95」、後のアインブライドは、北星村田牧場がフェアリーテイルとその系統に賭ける情熱の帰結であった。
ところが、そんな歴史を背負った「セブンレットウの95」は、牧場の同期の中でも馬体が小さく、目立った存在ではなかったという。目立つ点があるとすれば、人間に対しては従順なのに、他の馬が近づいてくると急に耳を絞って威嚇したり、牧場の従業員がカイバを持っていくと他の馬を蹴飛ばしても独り占めにしようとしたりする馬に対しての気の強さぐらいだった。
「セブンレットウの95」の兄姉のうち、デビューを果たした4頭はすべて高橋成忠厩舎に所属し、大馬主である松本好雄氏の所有馬として「メイショウ」の冠名で走っている。しかし、「セブンレットウの95」は「庭先取引では買い手がつかなかった」としてセリに出されたという事実からも、彼女に対する評価は推して知るべしであろう。
兄姉の中で初めてセリに出されただけに
「買い手がつくかどうか」
と心配していた村田氏だったが、ここで彼女の買い手として名乗りを上げたのは、JRAだった。
JRAには、生産牧場や調教師とのパイプを持たないために「馬をどう買えばいいのかわからない」ような小規模馬主でも馬を持てるよう、JRA自身が幼駒の調教を積んだ上で、希望する馬主に対して一律の価格で売却する「抽せん馬」(2003年以降は「JRA育成馬」)という制度がある。この制度に基づく馬は、価格を透明かつ公正に決めるため、馬の仕入れはセリを通じて行うこととされていた。 「セブンレットウの95」の落札価格は、515万円だった。庭先取引で行き先が決まる良血馬と比較すればもちろんのこと、セリで落とされる馬だけで見ても、中央で走る前提の馬としては、決して高額とは言えない。何はともあれ、JRAによってセリ落とされた瞬間、「セブンレットウの95」は、「抽せん馬」として走る運命と未来が定まったのである。