TOP >  年代別一覧 > 1990年代 > 阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~

阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~

『早熟疑惑』

 秋になって、ヤマカツスズランは、ようやく池添騎手とともに復帰し、ローズS(Gll)に出走することになった。

 ただ、手術の結果、脚にボルトが入った状態で復帰するヤマカツスズランに

「こんな脚の状態で、大丈夫なのか…?」

という不安の声が上がるのは、仕方のないことである。しかも、ローズSには、桜花賞馬プリモディーネ、オークス馬シルクプリマドンナが出走してくる。相手関係という意味では、もはやトライアルレースではない。

 ここで単勝800円の5番人気とそこそこの支持を集めたヤマカツスズランだったが、結果は無惨なものだった。得意の逃げには持ち込めたものの、第3コーナーあたりでもう一杯になり、第4コーナーを待たずに先頭を失陥するや、直線ではもう馬群に呑まれるだけの14着に沈んだ。3歳時の先行力と粘りは、見る影もない。見るべきものは何も無いほどの惨敗だった。

 そんな彼女の復帰戦を見て、不安が失望に変わるのも、当然のことだっただろう。もともと阪神3歳牝馬Sの勝ち馬が、4歳以降は輝きを失ってしまった例は少なくない。ヤマカツスズランの場合、その間に大きな故障があっただけに、なおさらである。彼女の姿に、やはり3歳時には無双の強さを誇りながら、4歳春を故障で棒に振った後、故障明けには並みの馬になっていたヤマニンパラダイスの姿を重ねたファンも多かった。

『秋の華』

 ローズSでの惨敗もあり、秋華賞(Gl)でのヤマカツスズランは、単勝1660円の7番人気にとどまった。3歳時の実績は確かでも、4歳になってからの彼女の姿は、その実績を過去にしてしまうだけのものだった。

 この日の鞍上が、ローズSではヤマカツスズランの良さを全く引き出せず、さらにGl初騎乗となる池添騎手だということも、不安材料だったかもしれない。ヤマカツスズランがスタートとともに先頭に立ったにも関わらず、後続がさほど警戒する様子もなかったことから、道中で後続を2,3馬身引き離し、阪神3歳牝馬S以上に楽な単騎逃げになったのも、ある意味で当然のことだった。・・・舞台が変わって距離も延びているとはいえ、ヤマカツスズランのレース運びが阪神3歳牝馬Sの再現になっていることの意味は、まだ誰も気づいていなかった。

 この日のヤマカツスズランは、ローズSとは全く違っていた。第4コーナーで池添騎手が鞭を入れ始め、直線で伸びる末脚に、ファンはもちろん、他の出走馬の陣営も愕然とした。同世代の実力ナンバーワンと呼ばれた馬に、ここまで楽な競馬をさせてしまったのはなぜなのか?…前走のローズSがあったからである。では、ローズSの結果は何だったのか?三味線を弾いていたのか?

 実は、池添師や池添騎手は、ローズSでの大敗について、ひとつの仮説を立てていた。

「久々でレース勘が鈍っていたことに加えて、初めての距離に対応できなかった結果、最後に息が持たなくなった」

 …確かに、ヤマカツスズランはローズS以前には1600mまでしか走っておらず、初めての2000mとなったローズSでは、逃げたにもかかわらず、直線でずるずると後退していった。1600mのレースに対応できないまま走って、ばててしまったとすれば、理屈は合う。池添厩舎の強気のコメントを無視したのは、他陣営なのである。

 直線で力強い末脚を伸ばすヤマカツスズランだったが、好位からさらに鋭い末脚で伸びてきた1頭だけに差し切りを許す結果となった。この日が重賞初出走の10番人気ティコティコタックの大駆けに、半馬身屈したのである。それでも、2着に粘ったのは立派としか言いようがない。

『失墜と復活と』

 秋華賞2着によって「完全復活か」と騒がれたヤマカツスズランだったが、その後は秋華賞とは別の馬のように、振るわない成績が続いた。

 秋華賞の後、マイルCS(Gl)に出走して14着に沈むと、そこから翌年の安田記念(Gl)までの約8ヶ月間で6戦を走ったものの、連対どころか、掲示板に残ることすら阪神牝馬特別の4着があっただけで、あとは全部2桁着順だった。その中には、突然思い立ったようにダートの交流重賞に出走し、選んだ舞台は地方競馬の中でも水準が低いとされる高知の黒船賞(統一Glll)…でありながら、ここでも多くの地元馬にさえ先着を許し、12頭だての10着に終わったレースも含まれる。

「やはりヤマカツスズランは終わっていたのではないか」

「秋華賞の2着こそがフロックだったのではないか」

 そんな声が再び上がり始めたヤマカツスズランだったが、そんな時にこそ結果を残すのが、彼女の真骨頂である。

 大スランプからの脱出のきっかけとなったのは、01年のマーメイドS(Glll)だった。牝馬限定戦ということで、阪神3歳S以来の1番人気に支持されたヤマカツスズランは、2番手から競馬を進めた2番人気タイキポーラの2着に踏ん張った。

 さらに、クイーンS(Glll)では、逃げてダイヤモンドビコーを寄せつけず、3馬身差で勝った。阪神3歳S以来、約1年9ヶ月ぶりの優勝は、「強い逃げ馬」の復活を告げるような勝ちっぷりであり、本格化する秋競馬に向けて、期待を高めるものだった。

『砂塵の戦場にて』

 ところが、その後のヤマカツスズランは、再びのスランプに陥ってしまった。1番人気に推された府中牝馬S(Glll)で7着と期待を裏切ると、エリザベス女王杯(Gl)、阪神牝馬特別(Gll)と、掲示板にも残れない惨敗が続いた。

 その後、しばらく戦線から姿を消したヤマカツスズランの名前が再び馬柱に載ったのは、かきつばた記念(統一Glll)だった。かきつばた記念は名古屋競馬場ダート1400mで開催される統一Glllだが、ヤマカツスズランにとってのダートでのレースは、前年の黒船賞以来、2戦目である。その黒船賞ではいいところなく10着に沈んだこともあって、陣営の選択には首をひねる向きも多かった。そして、4番人気にも関わらず、ここでも10着。1番人気サウスヴィグラスが1着、2番人気スターリングローズが2着と生粋のダート馬たちが人気通りの実力を見せつけた中で、ヤマカツスズランの無惨な結果だけが目立つ結果となった。ダート適性を疑われるにとどまらず、競走生活自体が限界に立っているのではないかと言われても仕方がない。

 ところが、ヤマカツスズランは、ここから甦った。次走のプロキオンS(Glll)ではスターリングローズに4分の3馬身差の2着に入り、さらに芝に戻ったマーメイドS(Glll)では、2着に3馬身差をつけて、11ヶ月ぶりの優勝を飾った。

 その後も、連覇を狙ったクイーンS(Glll)こそ14着と惨敗したものの、シリウスS(Glll)3着、JBCスプリント(統一Gl)4着、前日本サラブレッドC(統一Glll)、兵庫ゴールドT(統一Glll)3着と、ダートに絞って結果を残した。

 そんなヤマカツスズランも、根岸S(Glll)で久しぶりに掲示板を外すと、そのレースを最後に競走生活を退くことになった。同年の種付けシーズンに間に合わせるためには、それが最後のタイミングだったからということである。1999年8月にデビューして2003年2月の最後のレースまでの間、3年6ヶ月にわたるヤマカツスズランの競走生活であった。

『それぞれの道』

 繁殖入りした後のヤマカツスズランの代表産駒として、引退直後の交配によって生まれたヤマカツブライアン(父ブライアンズタイム)が2勝を挙げ、兵庫CS(統一Gll)2着に入ったものの、それ以上の成績を残す産駒は現れなかった。5頭の産駒を残したヤマカツスズランは、2010年7月2日に死亡したと伝えられている。

 ただ、彼女の産駒のうち2頭の牝馬はいずれも繁殖入りして現在も産駒を競馬場に送り出しており、その血はまだ絶えてはいないようである。

 ヤマカツスズランといえば、池添師、池添騎手という父子鷹との組み合わせの印象が深いが、ヤマカツスズランの唯一のGl勝ちとなった阪神3歳牝馬Sはキネーン騎手に手綱を譲っており、その後池添騎手に手綱が戻った後は、重賞は勝てても、Glでは勝てなかった。池添父子によるGl制覇は、統一Glでは2004年にプライドキムの全日本2歳優駿で達成したものの、JRAのGlではまだ果たせていない。ヤマカツスズラン以降でも、2010年エリザベス女王杯のメイショウベルーガで2着に食い込みながら、いまだにJRAのGlに手が届いていないことが、池添騎手の最大の心残りだという。池添師の定年が迫る中、果たして彼らの悲願が果たされる日はくるのだろうか。

『彼女たちが生きた証』

 これまでに見て来た6頭を含め、多くの3歳牝馬チャンピオンたちを輩出してきた阪神3歳牝馬Sだったが、2001年の番組改編に基づいて、条件変更こそないものの「阪神ジュヴェナイルフィリーズ」とその名を改めることになった。1991年に「阪神3歳S」からその装いを改め、3歳牝馬チャンピオン決定戦として行われた「阪神3歳牝馬S」の名前は、10年で過去の歴史へと消えていったのである。

 思えば、阪神3歳牝馬Sは、阪神3歳S時代も含めて、JRAからもファンからも軽視され続けてきたレースである。「旧八大競走+ジャパンC」とそれ以外のレースの間に歴然たる格の違いを残すJRAのレース体系の中で、前身である阪神3歳Sは、東の朝日杯3歳Sと並ぶ西の3歳王者決定戦として扱われてきたがゆえにふたつのGlの同日開催が慣行となり、注目が分散されてきた。牝馬限定Glとして新装された阪神3歳牝馬Sも、1991年から92年までの間は、WSJS(ワールドスーパージョッキーシリーズ)と同日開催となった影響で、Glでありながら準メインとしてしか扱われなかった時期すらあった。

 それでも、阪神牝馬3歳ステークスの歴代勝ち馬たちを見ていくと、他のGlも勝ったニシノフラワー、ヒシアマゾン、メジロドーベル、テイエムオーシャンだけでなく、本列伝で紹介した他のGl勝ちがない6頭も、スティンガー、ヤマカツスズランは多くの重賞を制している。また、阪神3歳牝馬S以外の重賞が2勝にとどまったビワハイジは、繁殖牝馬として抜群の成績を残した。このレースを唯一の重賞勝ちとなったスエヒロジョウオー、ヤマカツスズラン、アインブライドといった牝馬たちを含めても、同時期の牝馬三冠レースより豪華な勝ち馬が名を並べているといえるかもしれない。そんな伝統のレースの名前は、もう競馬界には残っていない。

 しかし、レースの名前は消えても、勝ち馬として名前が刻まれた馬たちの物語まで消えてしまったわけではない。その血統を現在まで残している馬たちはもちろんのこと、血統が途絶えてしまった馬でも、ファンにその馬生を語られている限り、彼女たちがそこにいた証は、確かに存在する。阪神3歳牝馬Sという名前が忘れられても、このレースで輝いたうら若き牝馬たちの物語を、我々は忘れてはならないのである。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
TOPへ