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阪神3歳牝馬S勝ち馬列伝~仁川早春物語(下)~

『抽せん馬、ナンバー2』

 JRAの施設に移動した「セブンレットウの95」は、当初は牧場時代と同じく目立つ存在ではなかったという。だが、育成と調教を重ねるうちに、

「相手がどの馬であっても決して動じない」

と評価が高まり、3歳となって育成施設を旅立つ時には

「西の抽せん馬の中では一番いいんじゃないか」

とまで言われるようになっていた。

 97年4月、馬主と所属厩舎を決める抽せん会に臨んだ「セブンレットウの95」は、前評判に違わず全体の2番目に指名を受け、荒木美代治氏の所有馬として宮徹厩舎へ所属することになった。当時の抽せん馬制度は、均一価格に設定された(アインブライドの時は686万円)対象馬の中から、参加者全員がくじで指名順を決めた上で、その順番に応じて希望する馬を指名していく方式をとっていた。つまり、彼女は同期の抽せん馬の中でナンバー2の評価を受けたのである。

 「セブンレットウの95」を管理することになった宮師は、もともとは騎手として81年に競馬界へデビューしたが、通算136勝で大レースにも縁がないまま引退し、96年に調教師免許を取得して97年2月に厩舎を開業したばかりだった。「宮厩舎」を旗揚げしたとはいっても、有力馬を仕入れるために必要な大牧場や有力馬主との人脈を持たない宮師にとって厩舎経営の道は険しく、4月の抽せん会当時、宮厩舎の所属馬はいまだに未勝利のままだった。

 数千万、あるいは億単位の有力馬を直接仕入れることができるルートを持った大馬主や有力調教師にとって、数百万円の馬を、それもクジという不安定な運命に頼らなければ確保できない抽せん馬は、魅力ある制度ではない。しかし、開業直後でまず馬を揃える苦労から味わわなければならない新人調教師の宮師にとっては、「数百万円の馬」1頭の価値がまったく異なる。まして、全抽せん馬の中で2番目に指名できた馬となればなおさらだった。

『フルキチ』

 もっとも、抽せん馬を確保できても、旧齢3歳の4月という時期からわかるように、すぐに厩舎の戦力として扱えるわけではない。「セブンレットウの95」を厩舎の戦力に加えてからも苦戦が続いた宮厩舎の初勝利は、その3ヶ月後となる7月のことだった。その頃の「セブンレットウの95」は、「アインブライド」と名を改め、2週間後に控えた小倉でのデビュー戦を待ち望んでいた。

 アインブライドのデビューの鞍上として起用されたのは、1977年9月26日生まれで当時19歳の古川吉洋騎手だった。古川騎手は、宮師が調教師免許を取得したのと同じ96年に競馬学校騎手課程12期を修了してJRA騎手免許を取得し、当時はデビュー2年目を迎えたばかりである。

 古川騎手と同期のデビューを果たした騎手たちの名前を挙げると、福永祐一騎手、和田竜二騎手、高橋亮騎手、柴田大知騎手、柴田未崎騎手、常石勝義騎手、牧原由貴子騎手、細江純子騎手、田村真来騎手となる。名前を見れば分かるとおり、「競馬学校騎手課程12期」というのは、前後の競馬学校騎手課程の卒業生の中では、最も注目を集める期と言われていた。同期の中で最も注目を集めたのは非業の運命に泣いた天才騎手・福永洋一騎手の息子である福永騎手だったが、他にも「双子騎手」として話題を集めた柴田兄弟、女性初の競馬学校騎手課程卒業生となった3人、中でも卒業時に同期の首席であることを意味する「アイルランド大使特別賞」を受賞した牧原騎手ら話題性のある新人が多く、自然と脚光を浴びる機会も多かった。

 そんな華やかなスポットライトの傍らにいながら、古川騎手はまったく目立たない存在だった。もともと競馬と縁が深いとは言い難い岡山県津山市の出身であり、中学時代は野球に熱中する少年時代を過ごした古川少年が騎手を志すきっかけとなったのは、知人の

「運動神経はいいけれど体が小さいので、騎手になったらどうだ」

という何気ない勧めだったという。

 だが、「気軽に受験してみた」騎手学校に合格し「てしまっ」たことで、少年の運命は大きく動き始めた。厳しい練習と減量の日々に耐え、ようやく騎手免許を取得した古川騎手だったが、目指した世界の現実の厳しさに直面するまでにそう時間はかからなかった。デビュー当日で2勝を挙げた福永騎手を筆頭に、次々初勝利を挙げてゆく同期たちとは裏腹に、古川騎手だけはいっこうに勝てない。古川騎手が初勝利を挙げたのは、デビューから3ヶ月半が過ぎた6月22日で、10人の同期の中では最も遅い初勝利だった。

 しかし、待望の「1勝」をようやく手にした古川騎手は、ようやく本領を発揮し始めた。まるで呪縛から解き放たれたかのように、馬群の内を衝く大胆な騎乗を武器として快進撃を開始したのである。古川騎手は、その週いきなり3勝を挙げたのを手始めに、その後も勝ち星を重ね、96年は事実上後半の6ヶ月だけで21勝を挙げ、「乗れる若手」として注目を集めるようになった。

 97年も順調に勝ち星を増やす古川騎手にひそかに注目していた宮師は、5月のアンタレスS(Glll)で、ホウエイコスモスへの騎乗を依頼している。ホウエイコスモスは、南関東時代に大井記念、柴田不二夫厩舎在籍時の前年にも東海菊花賞(統一Gll)を勝っており、いまだ未勝利の宮厩舎にとってはエース格の期待馬だった。一方の古川騎手は、この時点で重賞には2度の騎乗経験しかない。この時の結果は16着に終わったものの、宮師が古川騎手に期待をかけていたことが分かる。

 宮師は、小倉競馬場芝1200mの新馬戦でデビューさせることになったアインブライドの鞍上に、古川騎手を起用することにした。彼の若さを物語るように、馬柱の騎手欄に並ぶ彼の名前の傍らには、まだ1kgの減量騎手であることを示す「☆」がついたままだった。

『発進』

 アインブライドのデビュー戦は、単勝390円の2番人気に支持されたものの、初めて経験する実戦の雰囲気に呑まれたのか、スタートで出遅れてしまい、直線での猛然たる追い込みも届かず3着に終わった。

 しかし、アインブライドのデビュー戦で注目を集めたのは、3着に敗れたという結果より、むしろ出遅れながらも直線で見せた末脚であり、

「デビュー戦でこれだけ動けるならば」

ということで話題となった。なお、この時点では知る由もないにしても、この時の勝ち馬メイショウオウドウは、後に産経大阪杯(Gll)、鳴尾記念(Glll)と重賞を2勝している。

 閑話休題。負けて評価を上げたアインブライドは、中2週で臨んだ折り返しの新馬戦では、目立った相手がいなかったこともあって単勝170円の断然人気に推され、今度は次元の違う末脚で差し切って初勝利を飾っている。やはり1200mのレースで、しかも後方からの競馬を強いられながら、直線だけで後続に2馬身差をつけた豪脚は、彼女の将来性を見せつけるものだった。

 阪神に帰ってきたアインブライドは、続いて野路菊S(OP)に出走した。小倉3歳S(Glll)3着の実績を持つビッググランプリに次いで2番人気となった彼女は、人気薄の逃げ馬がレースのペースを吊り上げる中で後方待機を決め込むと、先行勢が総崩れになる中で力強い末脚を見せ、またも差し切りで2連勝を飾った。

 初戦の3着の後、2連勝であっさりとオープンの壁を突破したアインブライドに、その成長を確信した宮師は、次走にファンタジーS(Glll)を選んだ。

『前哨戦の失墜』

 この年のファンタジーSは、圧倒的なスピードを武器に新馬戦を5馬身差、500万下を6馬身差で逃げ切ったロンドンブリッジをはじめとする2歳牝馬の有力馬たちが集中し、阪神3歳牝馬Sの前哨戦と呼ばれるにふさわしいレースとなっていた。重賞初挑戦にあえて厳しい舞台を持ってきたという事実こそ、宮師がアインブライドに寄せる期待の大きさを物語っている。

 一線級との初めての戦いとなったアインブライドは、単勝910円の4番人気という穴人気に推された。しかし、このレースは、それまで一貫して逃げるレースを進めてきたロンドンブリッジが初めて好位に控え、そのまま最後まで押し切る競馬を見せた一方で、前残りのレースのあおりを食らったアインブライドは、後方のまま7着に敗れた。同世代のトップクラスを相手に、思わぬ展開になっても安定した成績を残すには、アインブライドの力はまだ足りていなかった。

 有力馬たちが集まった前哨戦に大敗したことで、アインブライドの評価は上がり損ねた。ファンタジーSの翌日には、同じ京都競馬場の菊花賞(Gl)でノーザンウェーに騎乗してGl初騎乗も果たした古川騎手だが、結果は16番人気で13着と、浮上のきっかけはなかなか見いだせない状態のまま、舞台は阪神3歳S(Gl)へと流れてゆく。

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