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サクラスターオー列伝~消えた流れ星~

『避けられぬ宿命』

 サクラスターオーは、当初の予定では、結果に関わらず、菊花賞後に休養に入る予定だった。もともと生まれながらに脚が大きく外向し、慢性的な脚部不安を抱えていたサクラスターオーだった。平井師には、そのサクラスターオーに、菊花賞に間に合わせるという一点のために、かなり無理をさせたという思いがあった。菊花賞のレースの後には、ゴールした後に減速する際つまづいたのを見て

「ああ、壊しちゃったか・・・」

とショックを受けもした。菊花賞の奇跡は、いつ故障しても不思議はないという恐怖と常に紙一重のところにあった。

 将来的な奥行きのある馬だから、4歳のうちに無理をさせることはない。ジャパンC(Gl)、有馬記念(Gl)は回避して、翌年の天皇賞・春(Gl)を目指す・・・それが、本来のサクラスターオー陣営の青写真だった。菊花賞では全氏に出走を懇願した平井師だったが、有馬記念では、逆に

「(有馬記念には)出さないでやって下さい・・・」

と直訴していて、既に了解も受けていた。

 しかし、その一方で、競馬界にはサクラスターオー陣営の思いを許さない流れが生じつつあった。菊花賞の後、「サクラスターオー、年内休養」の報が流れると、平井師や全氏のもとには、様々な方面から

「サクラスターオーを有馬記念に出してほしい」

という声が寄せられるようになったのである。さらに、有馬記念の出走馬を決めるファン投票でも、サクラスターオーは2位以下を大きく引き離し、圧倒的な得票を得つつあった。ファンは、サクラスターオーの有馬記念出走を望んでいた。

 しかも、サクラスターオー陣営のもとに、

「ファン投票でこれほどの支持を集めた馬なのだから、ぜひ有馬記念に出走させてほしい」

という要請が、中央競馬会からも届くに至った。

『理と責任の狭間で』

 1983年から85年にかけて、ミスターシービー、シンボリルドルフという2頭の三冠馬を得て大きく人気を伸ばした中央競馬だったが、彼らが去った後、次世代のスターホース不在に悩んでいた。85年の二冠馬ミホシンザン、86年皐月賞馬ダイナコスモスは既に現役を退き、85年日本ダービー馬シリウスシンボリ、86年日本ダービー、有馬記念を制した年度代表馬ダイナガリバー、同年菊花賞馬メジロデュレンは不振が続いて、スターホースとしての輝きを失いつつあった。

 そんな中で彗星のように現れたサクラスターオーは、中央競馬に久々に現れたスターホース候補生であり、ファン投票によって出走馬が決まる「ドリームレース」である有馬記念のために、ぜひとも欲しい目玉だった。

 サクラスターオー陣営の心は、サクラスターオーの脚を思うゆえの理と、競馬界に生きる者としての責任の狭間で揺れた。馬のことを思えば、休養させた方がいいことは分かっている。しかし、競馬を支えてくれるファンや中央競馬会の声を無視して、そもそも競馬が成り立つのか。「馬のことを思って戦いを避ける」ことは、戦うために生まれ、戦うことに生きる意義を持つサラブレッドの集う競馬の本質にそぐわないのではないか・・・?

 平井師と全氏は、サクラスターオーの出否について、再び話し合った。今度は、菊花賞の時とは対照的に、馬を思って出走を渋る平井師と、ファンやJRAを慮って出走に傾く全氏という構図だったようだが、最後は平井師が折れた。

「なんとか、準備してみましょう・・・」

 それが運命の分かれ目となった。平井師は、後にこの時の決断について、次のように語っている。

「ファン投票1位の馬ってのは、使わなくちゃならない。これは理屈じゃなく、義務なんだ・・・」

『破軍の星』

 サクラスターオーが有馬記念を前にして見せた追い切りでの走りは、いずれも最悪に近いものだった。格下の馬と併せてもついていけず置いていかれる光景に、一部では

「馬が走りたくないといっているようだ・・・」

とささやかれたという。

 ただ、サクラスターオーはもともと調教では走らない馬だった。当時、平井師はサクラスターオーの走りがいまひとつであることについて、

「馬がサボることを覚えたのかな・・・」

と漏らしている。サラブレッドは、レースで走りさえすればそれでいい。脚の外向という不安を抱え、走れば走るほど負担がかかるという爆弾を背負うサクラスターオーにとって、馬が自ら走りをコントロールすることは、悪いこととは言い切れなかった。

 そして何より、それまでは不安だらけだったサクラスターオーの脚部の状態が、有馬記念が近づくにつれてみるみるよくなっていった。

「状態は、本当によかったんだ・・・」

 東騎手は、調教での走りの悪さはレースと調教の違いを知る賢さゆえであるとして、状態に不安があるのでは、という指摘を否定した。東騎手が心配していたのは、これまでとは異なる次元のものだった。

「人間もそうだけど、馬も、今までみたいにどこかに問題を抱えていれば、慎重になる。でも、今回はどこもおかしくないから、一生懸命走ってしまうだろう。その時にね、何かが起こらなければいいんだけど・・・」

 怖いのは、馬が走りすぎてしまうことだけ・・・。そう語った東騎手は、サクラスターオーが向かいつつある破軍の星の兆候を無意識のうちに感じていたのだろうか。

『終わりの始まり』

 昭和62年12月27日・・・第32回有馬記念の出走馬に名を連ねたサクラスターオーは、単勝1番人気に支持された。

 この年の有馬記念は、ミホシンザンの引退やダイナガリバー、メジロデュレンの不振により、古馬の層の薄さがささやかれていた。古馬の大将格として2番人気に支持されたのが、この年の重賞を2勝し、前走のジャパンC(Gl)でも3着だったとはいえ、Gl未勝利の牝馬ダイナアクトレスだったあたりからも、その事情はうなずけるところだろう。馬券の中心は、あくまでも1984年生まれの3頭・・・二冠馬サクラスターオーであり、ダービー馬のメリーナイスであり、そして二冠牝馬のマックスビューティだった。

 ところが、レースの始まりを告げたのは、思わぬアクシデントだった。スタートとともに、メリーナイスに騎乗していた根本騎手が落馬したのである。約11万人のスタンドからは、驚きの声が漏れた。

「気がついたら、ベッドの上。応援してくれた皆さんには、申し訳ないことをした」

とは、根本騎手の弁である。菊花賞では行きたがるメリーナイスをコントロールできずに大敗した反省をもとに、この日は馬と喧嘩をしないよう長手綱で臨んだ根本騎手だったが、結果的にはそれが仇となった。メリーナイスがスタート直後につまづいた際、長手綱であるがゆえにとっさに対応することができず、自分が投げ出されてしまったのである。

 東騎手は、メリーナイスの落馬には気づかなかったという。サクラスターオー陣営が最も警戒していたのは、メリーナイスだった。東騎手がライバルの姿を探していた時、騎手と勝者の資格を失ったダービー馬は、馬群の後ろをとことこと追いかけていた。それが、この日中山競馬場を待つ悲劇の序章だった。

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